少女漫画読みの視点についての雑感/乙女ちっくと萌えの劣等要素は一緒か?

ミュージシャン。

なんか俺こんなことしてる場合じゃないんだろーけど、逃避混じりで物書きは続くよ。
さて、ユリイカ2006年1月号 特集=マンガ批評の最前線の話なんだけど、まず最初にちょっと脱線。私は、ある大好きなネット論者さんが、ある作品を使ってキャラ/キャラクター論を語っていた時、その作品が自分的に完全アウトだったというのも手伝って、正直「で、だから何?」という感想しか持てなくて、この論ってどう使っていけばいいんだろうと思ったんだけど、下ののだめカンタービレのキャラ=音楽説を書きながら「ここか……!」と思いましたよ。相変わらず頭悪くてすいません。
さて本題。まず昨日の話をさっくり纏めると、金田さんの「やおい天動説→地動説」理論に同意しつつも、やおい属性のない私はそこを華麗にスルーして少女漫画に無理矢理移行して論を展開。ヒット漫画である『フルーツバスケット』と『NANA』を基盤に、『ラブ☆コン』とか『恋愛カタログ』とか『花より男子』とかとてもlepantohとは思えない大衆ヒット作品名を連発。こういった作品ですら、少女漫画は基本的に「地動説」的に出来ていて、それは1、視点が多様だからである(フルバNANA)、2、恋愛史を描いていたとしても、妨害やら障害を描いているからじゃない*1、とゆーハナシ。しかし、一部のエロ小学館少女漫画で、天動説極北漫画が発生しだして、それが少女漫画をダメにした。そんな中でも、天動説的作品の限界を突破しようと頑張っているのが『キス、絶交、キス』じゃなかったの?という話だった。
今日は短く2つの話題だけに触れておくと、まず『のだめカンタービレ』はむしろ主人公のモノローグ&心の声が全く入らない漫画として注目しておくべきだろう。作者二ノ宮和子は、主人公をミステリアスにするために意識的にそうしているという。んーだけど、そういう「視点」に興味はあるし、そこにヒット漫画のヒミツが隠されている筈なんだけど、それが自分の中でうまく言語化されない。断面が見当たらないというか、切り取るナイフ=ネーミングが見当たらないんだよね。モンモン。というわけで、これは一応この日記での課題ってことで、頑張れー未来の自分!>俺。
あ、ちなみにもう一つ、ミステリアスな主人公のために主人公モノローグが全く語られない大ヒット漫画があるんだよね。それは『ONE PIECE』。――ミステリアスじゃないって?まぁ形容動詞の問題はいいのだ。この主人公は本当に不思議だ。物語のベクトルとルフィのベクトルがなかなか合わない。初期は、バラティエに大砲ぶち込んだりナミに涙ながらに頼ませたりで帳尻を合わせていたんだけど、グランドラインに入ってから、「俺は国はどうでもいいんだ」とかいいながら国救いの話を3つ連続でこなしている。正直言ってすごい気持ち悪いんだよね。だから、ロビン奪還編でようやく、目的と行動が一致したなァと思ったんだけど。そういえば『るろうに剣心』もあんまり剣心のモノローグがなかった気がするから、意外とジャンプにはいっぱいあるのかな?

 
もう一つ、ヤマダトモコの「『萌え』と『乙女ちっく』のあいだにあるもの、あとからくるもの」についての雑感を。多分どっかでちゃんとした反論がされてるんだろうと思うから、知ってたら教えてくださいな。バリバリ80年代生まれの癖して24年組ばっか読んでいる、パッと見懐古趣味の私にこの人のスタンスを責める権利があるんだろうか?別に同族嫌悪的なモノは感じないけど、私だって「卒論24年組って!アホか!」と手前に突っ込みせずにはいられないのに、なんつーかあんまりノスタルジー開陳しない方がいいんじゃないかと思いますけど。ああ、結局批判してるし(笑)。
「萌え」に関しては、東さん的、用法・用量を限定した狭い見方と、岡田斗史夫さん的萌えってをかしだよね(toroneiさんの記事を参照しました)という広義派があるなぁという認識があるんですが、「かわいいと萌えは一緒」ってのは、まだ、後者の一派だとして許容できます。しかし、「乙女ちっく=萌え要素=コンプレックス要因」という繋ぎ方は説得力不足としかいいよーがない。というのも、コンプレックス要因とはおおよそ全ての漫画において、主に視覚的に提示されてきたものであって*2、それは、読者のゆるい共感を主人公側に導くための小さな装置に過ぎない。たとえば売れ線少女漫画では、バカで胸が小さいのがお決まり。24年組においては人種。特殊能力。レイプの際の傷。少年漫画においては背が小さくバカで髪の毛が黒か赤か銀であること。仮令それを少女たちが楽しんでいたとしても、それは愛でる対象ではなくって、共感の対象。もしくは自己肯定のきっかけ。逆に萌え要素としてのコンプレックスは、決定的に他人のモノであるわけで、その点で共通項として扱うのは無理がある。私はトビー・マグワイアカルロス・バーナードやデイビッド・シュワイマーやマシュー・ペリーが駄目な男を演じていると、可愛くて仕様がなくなる、公私共に認めるダメ男大好き女。レヴィ・ディブランのヘタレ時代(蛞蝓とか蛆虫とか言われていた時代)が愛しくて仕方ない、最近だと『銀魂』の長谷川泰三が可愛くて仕様がないのですが*3、それを少女漫画と混同したことはない訳です。
だからそーゆう混同を防ぐ意味でも、少女漫画読みの「視点」をもう一回読み直さなくちゃいけない筈なんだけど、中々に頭が悪くて進まないんだ。苛々するね、このポンコツには。
ちなみに私は萌えよりも共感(憧憬)の方が感情として上位に来るので、あんま萌えのこと解ってません。もしかしたら男の人も、萌えるキャラの劣等要素に共感しているのかも知れないけど、ラブコメとかエロゲに関するこれまた浅い知識からすると、そういう状況の中心にある男性って無個性な、時には名前すら無いようなカタチだったりすることが多い気がして、そこは決定的に少女漫画と違うな、と。少女漫画の場合、キャラクターの外の立場からキャラを愛することは難しいと思うんですよ。あくまで主人公になりきってキャラを愛する。トラウマとか劣等要素を上手いこと使えば、キャラには非常に共感しやすいわけで、移入対象キャラが男か女なんてことは大して重要じゃないという(笑)。もしかしたら、萌えてる人々にとってはそれは乙女ちっく的なものであるのかも知れないんだけど、そもそも萌えと乙女ちっくを共有している人は殆どいないだろう、という点から、一応少女漫画読み側の意見提示をしておきます。

*1:これに関しては惑星連立というべきなのかも

*2:漫画以外の芸術でもそうだと思う。バレエやオペラはそんなことないかもしれないけれどミュージカルには散見できる

*3:ああホントは真島って書きたいのよ!