〈内面〉論のメチャクチャな発生にみる、大塚英志の論理的欠陥

洋館ラヴ

たまたま吉本隆明『マス・イメージ論』が手元にあるので、大塚英志が割と近年の彼の総括である『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』や『教養としての〈まんが・アニメ〉 講談社現代新書』などで少女漫画の通史を作成する際に用いる〈内面〉モデルの成立について少し書いてみる。『マス・イメージ論』の最終章「語相論」が大塚の引用元にあたるのだが、実際に読んでみると、事実の羅列ばかりでそれに大きな意味づけがされていない文章であることがわかる。ただし、一読してはっきりと分かるのは、この場合、吉本は大枠では画像と言語の関係について考えていて、その中で、〈画像と言語が平準〉であるつげ義春大友克洋岡田史子、そして〈言語が微分化されている〉山岸凉子萩尾望都、そして高野文子というグループを作っている。大塚は、吉本の権威と、この文章の着眼点と、そしてその主張の薄さをうまく利用して自分のオリジナルの論を組み立てている。大塚は吉本の主張と自分の主張をはっきり分けないで書いているから分かりにくいが、内面うんぬんというのは、大塚の完全なオリジナルだ。
唯一吉本の主張が見えるのはこのあたりだろう。

 つげ義春からはじまって岡田史子大友克洋のコミックス画像に象徴されるような、画像の様式化と言語の位相を平準化する方法は、ラジカルな自己主張をいちばん強力に集約できる方法みたいにおもえる。だがいつも新しい様式的な補給を必要としている。そうでないと画像が言語の〈意味〉の重さにおしつぶされてしまいそうだからだ。
 画像にともなう言語的な位相は、いつも多層化の試みに晒されている。それはさまざまなモチーフを秘めているが、いちばん大切なモチーフは、画像にともなう言語の〈意味〉の重さを分断して軽くし、またその言語的陰影を微分化しようとするところにあるようにおもわれる。
吉本隆明『マス・イメージ論』、福武書店1984、p.277 l.3-9

この2段落のうち、下の段落だけを抜き出し、紡木たく微分化が極限まで達した存在と評して大塚はこういう。

少女まんがは主人公の内面の陰影や奥行きを描写するのに、言葉を微分化し、いわば言葉に微細な陰影を与える技法で対処したのである。
大塚英志、『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』、2004、講談社新書、p.151

この論法がお分かりだろうか? 吉本は、言葉によってもたらされる陰影を「軽くするための」微分化である、という主張をしており、その表現法は「ラジカルな自己主張」の表出としては不適格であるとすら言っている。一方の大塚は、言葉が微分化されたことで、むしろ陰影を「与えた」と評しており、まったく逆のベクトルでの評価を与えていることがわかる。


そもそも、吉本が本文で引用するのは山岸凉子『籠の中の鳥(81)』と萩尾望都『メッシュ(80)』である。まさかメッシュに触れているとは、うかつだった。私にとって『メッシュ』は(何度も触れてきたように)少女漫画史に残る大傑作だが、もちろん、大塚英志『メッシュ』に触れない。彼には読めない類の本だから当たり前だが。
吉本は『メッシュ』を評して「たぶんこの作者には、刻々に変化してくる登場人物たちの感覚的な陰影を捉えたいという極度な欲求があって、平明画像のなかにさえも多様な言語のシートを、何枚も重ねて埋め込んでいる(p.280)」という。また、高野文子『はい―背すじを伸してワタシノバンデス(78)』を評しては「高野文子の作品では超感性的な世界、民俗学のいう他界を、作品世界として感性的に包括したいために、また観念の問題としていえば、無意識や幻覚としてしか体験されない世界をも、感性的な世界みたいに作品に実現したいために、どうしても言葉の位相を多重化する必要が生れた(p.283)」という。つまり、吉本はこの文章において、(1)登場人物たちの感覚的な陰影の表現、(2)超感性的な世界を包括する表現、として言語の微分化を提出していることがわかる。この理解は正しい。
一方の大塚が取り上げる作品は、萩尾望都『11月のギムナジウム(71)』から紡木たくホットロード(86)』へと一足飛びをしてしまう。吉本は70年代については全く記していない。それゆえ、ここにおいて、対立軸に置かれるのはつげでも大友でもなく、内面に出会って崩壊した梶原一騎とそれ以降の空虚な内面を持つ少年漫画であったり、もしくは乙女ちっくであったりする。これは、吉本が画像/言語を対立概念と捉えたのに対し、大塚はそれを内面のある/なしに置き換えているからだ。そして大塚は、上記引用部でもわざわざ「主人公」と限定しているように、内面の多層化はおよそ主人公ひとりのみに起こる出来事だと捉えている。彼はいくつもの包括的な仕事をしているので、いくつかの書籍で散見される主張だが、ここでは短くまとまっている『「彼女たち」の連合赤軍』の補章から引用する。

 ここで一度、『光の雨』から離れて80年代末から90年代初頭以降におけるサブカルチャー領域での「私」の多元化という事態において触れておく必要がある。70年代初頭に少女まんがの表現が「私」語りの表現として変容してきたことについては何度も触れてきたので詳しくは記さない。だが重要なのは、主人公の「内面」を少女まんがが表現する技術を獲得したことで、読者は無条件に主人公の心の中を透視することが可能になったという点だ。
 少女まんがは主人公である「私」がことばに出して他者に伝えられない「内面」をフキダシ(スピーチ・バルーン)の外側に心の内を文字化して記すことで表現した。作中では主人公の心の内は他人に決して語られないのにもかかわらず、読者のみがそれを瞬時に理解できる。
(中略、しかしながらそれらが終了し、『ぼくの地球を守って』の微弱コミュニケーションby藤本由香里や、『美少女戦士セーラー・ムーン』作中の人物の〈内面〉が均等にモノローグになっていることの指摘)
 萩尾望都たちの少女まんがは形の上では主人公の主観を通してのみ、世界を認識した。しかし『セーラー・ムーン』においては読み手は複数の主人公の主観を次々と移動する。こういった「私」の移動が読者に違和を持たせなかったところに自他の境界の喪失という運動をあらかじめ内包していた少女まんがの本質が見てとれるのだ。
大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍』 補「主体という幻想」、2001、角川文庫、pp.298-300

ここでも、また大塚の論理は、中略部の「70年代的な〈私〉語りの少女漫画が終結した後の、90年代初頭の少女まんが」といったように奇妙な飛躍を見せる。このように、吉本が84年(奇しくも『花咲く乙女のキンピラゴボウ』と『超少女へ』が出たのと同じ年なのだが)の時点で的確に指摘しえた文法は、大塚によって見事に80年代が無かったものとされ、「登場人物たちの感覚的な陰影」の発端は『美少女戦士セーラー・ムーン』にまで持ち越される。そして、否定される。


このように、誤読と誤解、そして誤認と否認を積み重ねられたうえに成立している大塚の〈内面〉論は、その成立からして彼ひとりの読み手としての力量(の不足)に大きく因ったものであり、それ以降、いくら彼が〈内面〉が崩壊したとか〈内面〉を仮託したとか何とかいっても、それは彼の恣意的な読みに過ぎないので、少なくとも「少女漫画の通史」として捉えることには無理がある。


最後に、大塚英志の内面をめぐる「転向」を示すことで、この検証を終えたい。

率直な感想をいおう。多分、誉められた山岸凉子自身、困っているだろーけど、(中略)いうまでもなく、吉本が指摘した4つの「差異と同一性」というのは、〈まんが〉という分野のきわめて初歩的な〈技術〉で、例えば小説家に対して、「作中人物の台詞をカギ括弧で囲んで地の文と区別していて、明晰に記号化されている」と絶賛している様なもので、繰り返すけれど、これでは、誉められた方は困ってしまわざるを得ない。
大塚英志『〈まんが〉の構造』所収 「吉本隆明『マス・イメージ論』メモ」、1987、弓立社

なんと、大塚英志は初読の段階(84年)では「そんなのあたりまえじゃん」と吉本の論を切り捨てているのだ(ただし、この時点では山岸のことを吉本が書いているのだ、と自覚できてるところがなんとも皮肉である)。ところが、その後奇妙な「転向」を果たす。

ありふれた文学に慣れてしまったぼくたちは物語中の人物に〈内面〉があることを所与のものとして信じ込んでいる。だが、それは単なる勘違いにすぎない。例えばマックス・リュティは昔話の特長として「内面世界をもたない」ことを指摘している。(p.42)


少女漫画が〈内面〉を発見し、その言語的な描写の仕方が定型化されるのは昭和四十年代、萩尾望都大島弓子ら〈24年組〉の手によってである。(p.44)
大塚英志『仮想現実批評』、1992、新曜社(初出『イマーゴ』、1991年10月、青土社

そう、英志きゅんは、漫画をあまり読まない吉本ならではの、「あたりまえ」なアイディアを、70年代に巻き戻すことで、少女漫画の特異性を語るのに利用ができると気付いたのだった。さらに、70年代に巻き戻すだけでは飽きたらず、「意味を分断して軽くする」という吉本の理解を、「微細な陰影を与える」と読み替えるウルトラCまでやってのけた。(追記)大塚の理解においては、これらの現象は、「最初の」そして「少女漫画唯一の」としてしか価値を持たないということになる。それでは、70年代の少女漫画が一種、大塚自身にすら「ラジカルな自己主張」として受け入れられながら、80年代において、吉本が指摘するような、それに対する不適切な形式を採用したかを読み取ることはできない。(ここまで)それはもはや『マス・イメージ論』とはまったく関係のない彼自身の思いつきなので、なぜいまだにそれを援用しているのかサッパリわからないのだが。
仮に彼がそれを独自のアイディアとして提出していたとしても、そしてその発祥が24年組であったとしても(これに関しては私に検証する能力がない)、彼がそれを主人公のみに負担させたり、はたまたあたかも少女漫画全体が〈内面〉を喪失した、という言い方をすることには違和感を禁じえない。ちなみに、彼が〈内面〉を喪失したと主張する時のお決まりの根拠は、別冊マーガレットの新人投稿欄で、岩館真理子紡木たくの手法を否定する発言をした」であり、これは大塚が吉本の文章を初読して評した言葉であるが、「なんとも歯切れが悪い」。


私たちは、今こそ、内面を「あたりまえのもの」として主張しなおすべき時にいるのではないか。


[Verse 2]

と、言ってもこれでは吉本の文章と同じ、ただの引用の羅列になってしまうので、自分の意見を記すことで、もう少し方向性をはっきりしておこーっと。
「大塚英志」を含む注目エントリー
と、いうわけで流行に乗って大塚英志をDisってみたわけだが(笑)。とりあえず、「少女漫画には今でも内面がある!この作品を契機に変ったのだ!」というのが面倒なので、「そもそも君の内面という定義、無効だから」という手に出てみた。id:arctanさんがコメント欄で、「大塚英志は乙女チックマンガを<内面>を書かないとして切り捨てたのではなく、むしろその逆に近いことがわかります。(中略)ただ、大塚が乙女チックと<内面>を結び付けているのが上の引用部くらいしかなく、そういう点で大塚の<内面>という切り口による少女漫画史がこのあたりでギクシャクしていると思うのはlepantohさんと同じ意見です。」とコメントしていらっしゃるけれど、この点は私もわかりづらい部分だと思ったので書いてみた。大塚によれば、梶原一騎的な少年漫画、それ以降の少年漫画、60年代の少女漫画などは内面がないという。一方、やおいは内面漫画とされている。しかし、乙女ちっくと手塚に関しては、ちょうどその真ん中辺りを採用しているように思える。大塚の分類では、「フキダシの外の文字情報に表現の比重が置かれているか否かが少年まんがと少女まんがを区別するおそらくは唯一の基準*1」なのだそうだから(なんだそりゃ)、〈乙女ちっく〉は、「少女漫画ではあるが、〈内面〉を追求した漫画でもない」という位置づけなのだろう。
(追記)今だにわからないのは、キーワード『傷つける性』においての「1970年代の末に完成された〈乙女ちっく少女まんが〉において,〈内面〉を語るという表現手法が確立された。〈乙女ちっく少女まんが〉を読んだ男の子たちは,女の子キャラが〈内面〉を持つものであることを認識する。」という記述であり、大塚の論に詳しいと思われるササキバラゴウがなぜこのような読解をしたかは謎だ。大塚はあくまで、〈乙女ちっく〉には内面がないわけではないが、それを完成させたのは24年組であり、〈内面〉という括弧つきの文脈において語られるのは24年組のほうである、と区別をしているように思える。この点のまとめはid:genesis:20050728:p1さまの記事に詳しい。(ここまで)


なんにせよはてなで少女漫画について何かしらの議論があることは良いことだと思うので、少し参加させてもらおう。id:arctanさんは「それは本当に大塚の男性原理によるものなのか?」という疑問を呈していらっしゃるけれども、この疑問の提出には全面的に賛成。私の立場はむしろ真逆で、「大塚を始め、フェミニズムと少女漫画評論が絡むとろくなことがない」というもの。右から左から難癖つけられて、大塚さんも大変だなあ……と思うけれど、私もそのリストを見て「いかにも男性が好む漫画のリスト」とか言われても全くピンと来ない。
大塚のあまり評価できないところは沢山ある。自分の論考をまとめる本を複数出しているにも関わらず、それに〈乙女ちっく〉を組み込めていない。また、組み込まれている漫画のリストもなんだかおかしいし、その中を入れ替わり立ち替わり表れる〈フロルの選択〉とか〈身体性〉とか〈記号〉とかがそのリストとうまくリンクしないために消化不良になっている。当時の社会やお得意の民俗学と結びつけようとしすぎて変な方向に行ってしまうことも多々ある。そして、決定的に漫画と本の読解力がない。
ただ、一つ疑問に思うのは、大塚は少女漫画の包括評論をしようとしていたのだろうか?ということだ。id:nogaminさんと私は、そこですれ違う。評論が包括的である必要があるなら、高原英理は評価できなくなってしまう。むしろ、大塚の評論は、たしかに社会時勢や何やらと結びつけてあるが、ある一つの軸を中心にした彼の自分史であるのだと思う。自分史であっても間違っているものは間違っているのだが、自分史であることは間違いではないと思う。むしろ、そのような本質を見抜けず、別のことを語っているのに大塚をいちいち持ち出してしまう人々が多いことのほうが驚きだ。大塚はあくまで、彼のものさしで少女漫画というバウムクーヘンを切り分けているのだということを、読者が了解しなくてはならない、と思う。
それゆえ、id:nogaminさんの議論では、たとえば『NANA』と「やおい系作家」が、大塚史観に含まれないという点で同列に語られてしまうということが起こる。その2者になにか共通のことが見てとれるならまだしも、誰も無理して「少女漫画包括史」を作る必要はないのだから、大塚が語らなかったことそのもを、私はそこまで問題視できない。これは、「乙女ちっくについては語っている」とするid:arctanさんよりある意味大塚寄り?の態度で、「乙女ちっくを語れないなら語らなくても良い」とする態度でもある。人間には興味や趣味や嗜好や問題意識や能力の限界があるのだから、これは仕方ない。それに、大塚は〈乙女ちっく〉を誉めるとき、〈かわいい〉と〈少女であるわたし〉を基準に語っていたと思うのだが、一連の議論ではその点があまり触れられず、結果として『NANA』がどのような文脈・価値において「語られるべき」であるのかがいまいち分からなかった(というか、そこで例に出された『フルーツバスケット』と『桜蘭高校ホスト部』ばかり語っているのが私だと思うんだけども、そもそも『フルバ』『ホスト部』を真面目に評論している人すらお目にかかったことがない。そこでプライオリティを付けるのは、最終的には評者の判断であると思う。語られるべきだと思えば語ればよい)。やはり、そこらへんは評論読者の問題「でも」あるように思えるけど。(追記)それに、『NANA』語りはなにも〈乙女ちっく〉の文脈上においてのみ可能というわけではない。実際に藤本由香里は『恋人よりも女友達を―NANAに見る新しい女性像』として、むしろ24年組的な文脈の上で『NANA』を語っている。
ただし、大塚はそのあたりのエクスキューズが致命的に足りない、むしろ一部少女漫画を一般化して語りすぎるので、それは大問題。「一部の少女漫画では、身体の記号化が進み、内面が崩壊し……」と言えばいいものを、全体化して語ろうとするのは無理がある。それと、自分が関われなくなったものを、勝手に崩壊(内面)とか和解(母性)とか溶解(「私」の多元化)とか言って否定して終らせるのがマジでイラッとする。読めてもいないのに、私たちが享受しているものに、後ろ足で砂をかけないで欲しい。


私の立場としては、24年組が内面をうまく記したというのは間違いないが、それが最初であるかどうかは議論できない(『新宝島』の例もあるし)。その後の内面における考察は雑すぎる、というもの。とりわけ、『ホットロード』を引用するくだりは、この人も言っているけれど、あまりに雑すぎる。それに、微分化という一点のみで交錯する萩尾と紡木を、『ホットロード』のラストで主人公が母性と和解したから、と、萩尾および少女漫画の問題をごっちゃにしてしまうのは酷い。そうそう、吉本の議論についてもっと興味がある人は、大塚の誤読と画像/言語を詳細に検証しているこちらも役に立つ
私にとって大塚の誤読問題は「内面」云々よりも他の事象のほうが気になっていたりするので、自分の本研究とあんまり関係がない〈内面〉についてはWebに公開。読めば読むほど、80年代が大塚にとって鬼門であることがよくわかったので勉強になりますた。
とにかく大塚英志の本は、夜中に読んでいると、「ああ、この少年としての透明な時を他人のアラ探しに使うなんて……」とぐったりすることが多かったので、ここ最近のように有意義な議論が行われるのはとても良いことだと思った。大塚さんの文章は、自分の問題意識を明確にするための鏡となってくれることが多く、そこから自分の方向性がはっきりすることがよくある。もしかしたら本当に革新的な少女漫画評論というのは大塚英志を読んだ人からは出てこないのかも知れないけども……。

*1:大塚英志『仮想現実批評』、1992、新曜社、p.40