『マージナル』都市編は失敗作だ


劇団Studio Lifeの『マージナル』を、砂漠編、都市編の順で見た
マージナル (2) (小学館文庫)
マージナル (1) (小学館文庫)


当該劇団の作品は、少女漫画を題材としたものが多く、私もこの間の『カリフォルニア物語』とか『トーマの心臓』とかをちょくちょく見に行ったりしていた。
『カリフォルニア物語』は原作がとてもいいのだが、なんとなくそれを忘れていたので、改めて舞台化されるとなんとも心に沁みるものがあった。1部の終わりはヒースと父親の関係に焦点をあてている。ヒースが父親と事あるごとに衝突しながらも、心の底では承認されることを望んでおり、ヒースと仲のよい医師(過去に子供を失った)と父が自分を引き渡す話をしているのを盗み聞きして引き裂かれ、「父さん!」と赤い光に照らされながら苦しそうに叫ぶシーンにて1幕が終わるのはなんとも見事であった。

カリフォルニア物語 (4) (小学館文庫)
カリフォルニア物語 (3) (小学館文庫)
カリフォルニア物語 (2) (小学館文庫)
カリフォルニア物語 (1) (小学館文庫)


 さらにもっとすばらしいのは2部で、これを見たときには「これこそが“少年愛”漫画なんだよ!」と心の中で叫ばずにはいられなかったほどだ。2部にはイーヴのヒースに対する恋と、それを含む同性愛に対するヒースの生理的嫌悪が描かれており、イーヴの死をもってなお彼に恋することができないヒースをリロイが処女みたいだとからかうシーンはわたしの評論にとってとても大事なものである。
 そもそも『トーマの心臓』であろうが『風と木の詩』であろうが、はたまたわたしがべた褒めしている(これについてはこれからもっとしなくてはならない)『ゴールデン・デイズ』であろうが、少年愛とはつまるところ達成されない恋の美学であって、なぜ達成されてはいけないのかということは散々と『無垢の力』と『ゴールデン・デイズ』に描いてあるので参照されたい。
ゴールデン・デイズ 第7巻 (花とゆめCOMICS)
無垢の力―「少年」表象文学論



 ただし一言に少年愛といってもいろいろあって、肉体を介在しない精神的な反逆活動(および同志の確認)としてのそれは哲学に近いし「一部のやおい評論を」、いっぽうで竹宮作品のように肉体あってこその作品もあるし、その中間もある。
 吉田秋生の異様なところは、みんなそれなりに汗臭く、インディアンやらブッチやらリロイという男が精神的高次体としてではなく地に足のついた人間としてきちんと描かれているのに、つまり肉体がそこにあるのに、それに手を出さないところである。しかもそこには振りかざされる「ストレートの論理」が存在しない。あるのはひたすらに苦悩する、欲望する主体と欲望される客体である。
 わたしがやおいを――もっとも正確に記すなら「一部のやおい評論を」、というべきだが――嫌悪したのは、「ストレートの論理」を堂々と振りかざしながら、同性愛という形態がいかに人々(ひとびとですよ、“わたし”ではなく!)にとって自然と必要とされているかを切々と説くからであった。そこには主体も客体もなく、自己正当化と他者へのなすりつけだけが続く。その代表が「ジェンダーレス・ワールドの〈愛〉の実験」と『やおい小説論』であり、この日記でも過去に散々茶化してやったが(まとめサイト上野千鶴子やおい評論の項を参照)、必要ならもう一度書き起こしてみることもあるかも知れない(というのも、そのあたりは論文にも書いてあって、それを手直しすればいいだけのことだ)。もっというなら、この狭い漫画評論業界とやらがその狭さからまったく内部での批判が起こらない体質になっているのが堪らなく嫌で、はっきりいってわたしが評論から興味を失った原因はそれであった。だれかしらがそこを論じないとやおい評論とやらはいつまでたっても先に進めないのではないか。やおいを読まない“わたし”の知った話じゃないが、すくなくともわたしはそれをされなければ今後の批評を信用できない。
やおい小説論―女性のためのエロス表現
発情装置―エロスのシナリオ




 閑話休題


 当該劇団による『トーマの心臓』に見られたような解釈の違いを楽しむまでもなく、『マージナル』都市編が失敗作であることは自明である。
 記したとおり、達成されない恋やら、精神的な同性愛というのは少女漫画にとって大事なモチーフであって、わたしはそれを見に行ったのである。よって、メイヤードは苦しまなくてはならないし、欲しなければならないし、手に入れてはならない。


 「都市編」ではメイヤードがアシジンの身体に憧憬しないのである。


 そもそもメイヤードというのは萩尾作品の中でもおそらくオスカーとメッシュとイアンに肩を並べるほどの重要人物で、というかわたしが好きなだけだけれど、いいやそれだけではなく彼が背負うものはあまりに大きい。残念ながら役者さんは力不足である。彼はヘリウムボイスの線の細い男性ではない。辺境の伯爵がごとき、自らの様式を確立した落ち着いた中年男性であり、声は低く滑らか。眼鏡は彼の神経質さだけなく聡明さと思慮深さを強調し、黒のレザーにヒールの靴なんてお召しにならない。
私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち (朝日文庫)
 冗談はそのくらいにして、彼は藤本由香里が指摘する、「いっそのこと本当に変質者だったらよかった」ひとびとの一人である。わたしは彼女の当該作を読む度、なぜ彼女がそのことを見落としてしまうのか不思議に思うのだが、メイヤードは水間碧のいう「男根を持った父」の派生であり、大塚英志をして「〈母である父〉」と言わしめる辺境の存在であり、わたしや彼自身が言及するまでもなくマージナルとは彼のことである。普段は大塚英志を論敵とするわたしであるが、この点については彼に賛辞を送るよりない。
隠喩としての少年愛―女性の少年愛嗜好という現象
 聡明なかたがたはすでにお気づきの通り、前述したヒース・スワンソンその人も、広い範囲では本当に変質者であればよかった人である(もちろんわたしは異性装者や同性愛者を変質者と呼ぶのには反対だが、偉大なる佐藤史生に免じて許していただきたい)。しかしメイヤードとはその質も痛切さも異なる……そもそも吉田作品のストレートたちは結局ストレートでありたいのであるが……彼らには立派な肉体があり、メイヤードにはない。彼らはその肉体ゆえ欲望され、そのことと戦わなくてはならないのだが、メイヤードは自分を欲望する主体として不適格であると感じているし、それゆえアシジンの肉体を欲望する。その感情にふさわしい名前を挙げるなら、やはりそれは憧憬となるであろう。


残酷な神が支配する (10) (小学館文庫)
 さて、(次々とモチーフを持ち出して申し訳ないが、それだけメイヤードが重要であるということだ、)「欲望する主体として不適格である自分」、それはまさしく『トーマの心臓』のユリスモールの苦しみであったし、『残酷な神が支配する』のジェルミの苦しみでもあった。この2者の相関については藤本由香里とのインタビューで萩尾が語っているので参照されたい。

 さらに言えば、萩尾作品の中で「男性になりたい」という欲望が語られることの珍しさ、それがここまで婉曲な形をとらざるを得なかったことと、彼女自身が少年を一種の憧れとして主人公に据え続けたことを並べれば、なぜあの舞台が失敗作であったかの証明には足りるかと思う。
 わたし自身が彼に思い入れるのも、わたしがこの女性という容れ物と戦い続けたからに他ならない。実はわたしは少年漫画や青年漫画のほうがよっぽど好きなのであるが、研究テーマに少女漫画を選んだのは、メイヤードのような存在がときおり現れて強くわたしを引きずるからである。
少女まんが魂―現在を映す少女まんが完全ガイド&インタビュー集

 それほどに深い彼の苦悩を、わざわざ2本立てで舞台化するというのに、なんと勿体ないことをしたのか。マルグレーブとしての彼、余命幾許もない彼、カンパニーの彼、このあたりはわりかし、どうでもいいのである。エゼキュラ因子保有者としての彼、キラの母としての彼、キラの父としての彼、女性化する彼、このあたりが結構重要。そして、ナースタースに恋する彼、それゆえに男性の身体に憧憬する彼、この矛盾こそが最重要事項であったのだ。それを描かないと、あの美しいアシジンが彼の腐敗する身体を抱きつづける意味がまったくなくなってしまうではないか!
マージナル (3) (小学館文庫)


 しかしまあ、砂漠編はきっちりとまとまっていて良かった。とくに「いつか殺してやる」「手のひらを返したな!」のあたりが好きだ。それはさておき曽世さんの素晴らしさである。岩崎さんはヒース役もよかったし、いつも外に出てきてファン思いの方なんだろうが、いつも舞台に立てていない(姿勢が悪いからか?)のが気になる。スタイルがいいからかもしれないが……。
 都市編のイワンの独白は圧巻。「大脳新皮質は何をしている!?」また両編ともネズやミカルがとても良い。しかし両編ともどもキラが太い声で叫びまくるのには参った。もう少しかわいく叫んでくれてもいいのに……。ナースタースの「足許にすがり付いて言ったわよ!」は良いなあ。


さて、ずいぶん長くなったが、ようやく昔からのスタイルに戻った感。今後ともごひいきに。