他人を救えない仏教の物語――手塚治虫『ブッダ』


人生いろいろあって、こころに悩みを抱え、仏教に走る岩瀬。クリスマスに仏教の話題を更新するというのも私らしいではないか。

ワン・ゼロ (2) (小学館文庫)

さて、私は佐藤史生『ワン・ゼロ』と水樹和佳子イティハーサ』の熱狂的なファンだし、この2作品の要点はよーするに「汚れて穢れて罪を犯してたとえ人を殺したって、悟りを啓いて涅槃に入るよりよっぽどマシ! 業こそヒトを人間たらしめるものであり、それを捨てた“幸福で無知な人々”を、私たちは軽蔑する!」という80年代少女漫画界きっての超ロックな魂の叫びであったわけで、若くて元気に溢れているころはわたしも「イエーそのとおりだぜ!」とかなんとか思っていたに違いない、実際わたしの岩瀬坪野と言う名前はI was born to knowからきているのであった。
しかしながら歳月というのは恐ろしいもので、どう考えても社会生活に馴染まない精神性(リクツッポイシーオタクダシー)を奥に隠しながらどうでもいい人や大好きなひとやらに揉まれて疲れて「ああ執着を捨てたい」と、それはもう真摯に思ったのであった。他人に対する、仕事に対する執着を捨て、自分から切り離していられたらどんなに楽だろう。
というわけでなんとなく哲学としての仏教に傾倒しはじめたのだけど、せっかくだからと手に取った手塚治虫
イティハーサ 全7巻


や、役にたたねえ


さあ手塚ファンの皆さん私を怒るがいい。

■稀代のストーリーテラー手塚治虫が語る『ブッダ』の生涯

ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)


そもそも読み始めて相当しないとブッダが登場すらしないという手塚治虫が作りこんだ(架空の)キャラクター設定とストーリーにぐいぐいのまれて12巻まで読みきった。なんというか、少年漫画のような疾走感であるが、一方で登場人物が多いのでチマチマ読んでいたらわからなくなるだろう。突如として出てくる新キャラクターの人生が子供の頃から説明されること数度。そのたびにわたしは彼らがどうブッダの人生と関係するのかを期待しながら読んだ。わたしの読みは間違っていないと思うが……しかしそれでは圧倒的に足りない。


何がって、内面描写がである。


このあたりは正直専門家にお任せしたい。わたしは大嫌いな大塚英志の言うことなら一通り読んだが、どうも自分で自分を信用するに足らない。しかし内面描写が希薄であるか否かでいえば、わたしは「希薄である」とジャッジする。正直、『少女コミック』に連載されている少女漫画より希薄である。登場人物が何を考えているかは、何をなすか、何を言うか、周りの運命がどうであるかによって決定され、読者はそれを類推する。


手塚治虫ブッダ』はすばらしく面白い。アッサジやアナンダの脚色も、タッタやデーパといった架空の人物も完璧である。しかしながら、物語が内面よりストーリー展開に重きを置いているために、仏教的には「輪廻転生」および「因果応報」の2つが、必然的に脚光を浴びる形となっている。そのことをどう評価するか、である。


アッサジは仏典では良いとこの坊ちゃんだが、手塚作品ではマーラ(魔)に守られ仏陀を殺すことを宿命づけられていた怖いもの知らずの人殺し盗賊であった。しかしアッサジはブッダに会って改心し、マーラの誘いを断ち切ってブッダに帰依する。アッサジは自分の教えが伝わらず悲嘆にくれるブッダに言う。

ブッダ
「私は失敗したのだ…………」
アッサジ
「とんでもありませんっ 私を見てください このアナンダはあなたの教えによって生まれ変わったのです!! 私という極悪人の人殺しが救われたんですよ!! 私だけじゃありません!! 竹林精舎にいる一千人のお弟子のほとんどはあなたの教えを聞いて目がさめたのです あなたは偉大な人です あなたの教えは永久に伝わります そして何千万人も救います」
(第七部第1章 悲報より 文庫pp.110-111 vol.12)

そんなアッサジに励まされるブッダも、100ページ前に自明灯についてアッサジに説明する折には、こんなことを言っているのである。

「アナンダ おまえは まだ 私の心がわからんのか…これだけ一緒に旅をしていて……」(第6部第11章 陥穽より 文庫p.14 vol.12)


すみません私も分かりません。


というか、ブッダ』の作中においてブッダの説法を聞いて悟りを得る人は誰もいない。
弟子になる人はいるが誰も悟らないのである。


これが手塚治虫ブッダ』の最大の問題点である。


ここからはネタバレ


作中には初期から最終巻までずっと出演する架空のメインキャラクターがおり、第七部第1章 悲報は彼の悲報のことを指している。彼が死んだこと、そして何度もその機会があったのに、自分の故郷と一族を守れなかったことがブッダを苦しめる。「私がいままで何十年も人に説いてきたことはなんの役にも立たなかったのですか!?」というブッダの挫折こそこの物語のクライマックスである。しかし、ブッダが人々に何を説いてきたというのか? 説法を、たとえ話を、八正道を、四諦を? もし、手塚治虫が人がどのように悟ることが出来るかを描けば、悟ることなく死んでいきブッダにショックを与えた数々の人々の死は、より強いコントラストの中浮かび上がって見えたであろう。物語はもっと面白くなり、思想が根拠をもって語られたであろう。しかし、これではわたしには復讐を果たして死んでいった彼が美しいままにしか思えない。アナンダが(バレ)愛するリータと引き換えにしてまでブッダを守った理由がわからない。


もちろん、『ブッダ』において、人々が安寧を得るための、答えのようなものは一応、用意されている。ブッダがひらく第2の悟りがそれに当たるであろう。それがどのようなものであるかは、今は記さない。しかし、私には到底納得のいく答えでなかった。


手塚治虫ブッダ』は人を救えない仏教の物語である。これは誉め言葉ではないが、同時に貶し言葉でもない。この漫画は実際にブッダが大事な人を救えず苦しむ物語であるのだから。そして実際に仏教は、自分が解脱する小乗仏教と、解脱できるようになっても他人を救うため現世に残る大乗仏教へと分裂の道を歩むのだから。しかし、彼が始めた仏教が「小乗」なら、なぜ彼は他人の死にああも苦しむのであろうか?


手塚治虫ブッダ』は、「悟り」への経緯を主眼に置くことをせず、他人を救えないブッダ自身の苦悩と「因果応報」「輪廻転生」を体現するストーリーを楽しむ漫画である。