3、萩尾望都と吉田秋生

ここで注目したいのは、それが萩尾望都と根底で通じているということである。例えばユリスモールがサイフリートにうけた折檻や、エドガーが大老に受けた儀式とといった、ある種の美化が施された虐待の構図を、吉田秋生は(彼女の特性である)性というファクターを前面に押し出しながら再構成している、そして受動性器をもったキャラクターが、次第に前面に押し出されるようになっているのである。
また、萩尾望都が描いた異端児の系譜は、よりリアルかつ自然な形で吉田作品に受け継がれている。バンパネラ、ユダ、火星人、シャム双生児といった表彰は、社会の中での性の被害者といった姿に変わった。その人物達が概して美しいことは萩尾望都と共通しているが、萩尾望都は生まれつきの異端児の美化と昇華のために、その美しさを用いたが、吉田の場合美しさがあだとなり、異端に貶められる。

さらに、宮迫千鶴の表現を借りて、「少女」(認識行為と主体性を封印した眠る人形)「非少女」(認識行為と主体性を持った、なぜと問い続ける少女)について考えると面白いものがみえてくる。*1
まず、萩尾望都の描いた非少女は、極度に昇華され、少女世界への回帰と少女からの脱出を同時に望む存在である(代表例:エドガー、ユージー)。そして萩尾望都作品の中で、「白痴」は少女のメタファーであり、少女的なもの、白痴であるものは悉く殺される。それは非少女が憧れる少女の美しい部分のみをもった無垢な存在である。トーマ、メリーベル、アラン、ユーシー、ル・パントー、トリル。*2
それを前提に、吉田秋生の作品を覗いてみると、いくつかの興味深い点に気づく。まず、『カリフォルニア物語』では、非少女ヒースと少女テリーと、兄弟の中での対比があり、父マイケルによってヒースは兄と比較されている。ところが兄テリーが、自分の意見をハッキリと言うことが出来る非少女ヒースに対して憧れと嫉妬の念を抱いていたことが明かされる。この「少女」からの視線は、萩尾望都にはない。さらに言えば、叶小夜子なども非少女の部類に入ることは間違いないが、彼女も「何も知らず少女のよう」な母親を見て、「女としてどっちが幸福なのだろう」と自らに問いかける。萩尾望都のような昇華は行われない。
そして最も興味深いのが、吉田作品につきものの、「片割れの喪失」である。吉田秋生の作品においては、相互補完関係にある二人の片方が死亡することが多いが、カリフォルニア物語のイーヴ(白痴的)とテリー、そして吉祥天女での涼の死亡は、少女的な者、無垢な者の死亡であり、萩尾望都と完全に被っている。残されるのはヨゴレの非少女ヒースと小夜子なのである。ところが、アッシュに関しては違う。ここで初めて、吉田は非少女を殺すのである。
勝手な憶測を許していただければ、吉田秋生は年を重ねるにつれ、本当に生きていけないのは非少女のほうであると気づいたのではないか、と考える。萩尾・吉田両作品に於いて、少女は自らを慰め、理解してくれるという理想化された存在である(ただし、その少女の所為で自らが非少女に貶められていることも忘れられてはいない。たとえばトーマや小夜子の母を見よ)。少女の死は往々にして非少女に、自らの存在を問い直させるような役割を果たしている(生け贄!)。だが、少女はとある時期を無垢にすごすことにより、何の疑いもなく女になることができる。そして白痴は何にも汚されることがない。となると、生きていけないのは誰か?結婚も出来ず、社会の不条理に目を瞑ることも出来ず、抵抗し、抵抗し、抵抗し、その先に待っているのはなんなのであろう?(たとえばあなたは、叶小夜子が結婚する姿を想像できるだろうか?)それに気づいた時、非少女は死ぬしかないのである。*3

*1:当然、現実はこのような少女だ非少女だでパッキリ分けられるものではない。が、キャラがキャラである漫画の中においては、この見方は発明といっていいほど面白いモノだと思う。

*2:そこから脱出しようという萩尾のあがきの結果が、エルグであったりエリックであったりするのだが。

*3:二巻で渡辺えり子が『私たちの死体』というエッセイを書いており、私はこれをとても興味深く読んだ。ここの11/23に大部分が載っている。