序の序・萩尾望都作品における救済者の性格

以前予告したミニ論文の序の序、前提です。1/2いちお完成
萩尾望都トーマの心臓』『訪問者』既読を前提として話を進めています。未読者は決してこの先を読まないことをオススメします。これから私は『トーマの心臓』についてかなり偏った意見を表明しますのでご了承ください。

はじめに

ユリスモールはなぜ神学校に行ったのだろうか?
トーマの心臓』を読んだ後、私たちの心に残る余韻、そしてやるせなさの原因であるひとつの疑問。その疑問が『トーマの心臓』を名作たらしめているとすら言うことが出来る、と私は感じている。しかし、『訪問者』を読んだ時、ようやく私の中で何かがつながった。トーマの心臓』において、萩尾望都が達成できなかったこと――それを何度も何度も反復している、そしてやり直そうとしているのが萩尾望都の作品ではないか?そしてそれは最終的に、「神学校にいかなかったユーリの物語」と萩尾本人が語る、『残酷な神が支配する』を生み出すことになる。

なぜユリスモールは神学校へいったのか?『トーマの心臓』の違和感

オスカーは「ぱふ」1979年7月号の漫画キャラクター投票においてエドガー(ポーの一族)を抑えて1位になったという、やたらと人気があるキャラクターである。ただし、『トーマの心臓』においてのオスカーの位置は、主人公ユリスモール(ユーリ)、そして死んだトーマにそっくりなエーリクに次いで、三番目くらいの重要キャラでしかない。ユーリのことを好いており、一つ年上の同級生で、気の利くお兄さんのような存在である。ところが、物語において、ここぞとばかりにおいしいところをもっていくし、繊細さと優しさ、リーダーシップを兼ね備えており、確かに格好いい。
しかし、オスカーの想いは報われない。ユーリは神学校に行ってしまうのである。

この物語は、ユーリが思い悩んでいることを知ったトーマが、なぜ自殺したか、その意味を探す物語だ、とよく言われる。しかし、ユーリが何を思い悩んでいるのか、私たちには最後まで明かされない。そこで、私たちはエーリクやオスカーの目を通して、ユーリを見ることになる。そうして、最後にエーリクに明かされるユーリの苦悩を聞き、私たちはその本当の意味を理解する。そこで漸く、読者とユーリが一体化するような構造をとっている。しかしながら、その後、やっぱりユーリは神学校にいってしまうのである。ここでもう一度、私たちはエーリクとオスカーの元にかえり、彼らと一緒に、ユーリの乗る列車を見送る羽目になる。これこそが、この物語を読んだ後に感じる違和感の正体である。
もう一度この物語を読み返すとき、私たちは既にユーリの苦悩を知っている。ところがエンディングは変わらない。そしてまた私たちはエーリクとオスカーの横に立つしかない。

結論から言えば、ユーリはオスカーに最もしてはいけないことをしたのである。
私はこの物語をこのように解読する。翼を失ったことを悩んでいるユーリは、サイフリートにうけた仕打ちと、その彼に惹かれていた自分を否定し、トーマの愛(アガペー的、神からの愛)を受け入れられずにいた。しかしトーマはユーリの為に自殺し、エーリクによってその意味を知る(といっても、トーマは翼のことを知っていた筈はないので、翼をあげるというのはメタファーでしかない)。そしてオスカーの告白を受け、勘違いし、オスカーをキリストと見做し、自分が許されたことを知り、エーリクをトーマと見做し、トーマを天使と見做し、罪を告白した後、トーマの愛の支配下に入ることを選ぶのである。
私たちがやるせないのは、私たちがエーリクやオスカーであり、ユーリに対しては彼らと同様にフィリアしか持ち得ないからだ。ところが彼は、多くの友人に愛されていてまだ満ち足りない。彼に必要なのは神の許しなのである。そこでオスカーは、神の仮面を被せられることになる。

なぜオスカーは置き去りにされるのか?『トーマの心臓』のラスト

実は作品中、オスカーはこのラストを見ぬいている。

「トーマ・ヴェルナーに負けそうなんだ……
 ユーリの頭から彼を消せないんだ……
 ぼくはユーリの手のうちはみんな見ぬいててなにもかも知ってるのに
 ――ぼくがいちばんユーリを理解できるのに
 ジョーカーも持たず何も知らない彼に負けそうなんだ――」(文庫227p)

さすがオスカー。ところが彼にも予測できなかった事態がある。彼はユーリがトーマに奪われることを見抜いていたが、「それを見ぬけるオスカー」自身が、オスカーを貶める事を見ぬけていない。何もかもを知っている、そして見ぬいている――それは神である。

「いろいろつらいことがあるんだよ彼には
 ぼくは彼が心を開くのをまってる
 でもそれには時間が必要だ」(文庫168p)

まつ――これがオスカーの基本姿勢である。オスカーは全て知っている、そしてユーリが心を開いてくれるのを待っているのだ。それもやはり――神なのである。彼は時がユーリの中のトーマを消すのを、サイフリートを消すのを待っている。勿論エーリクの出現で、それは脅かされる。そして理科室で「……ぼくはきみが……好きだけど きみは エーリクのほうが好き?」と焦ったりもするのだ。

昔 あのころ 世界はもっと明るかった
きみは人を愛しことがらを愛し
理想とするところに向かっていた

トーマ・ヴェルナー
あの天使は死んでしまった
そして きみは ぼくの目を見ようとはしない

では ぼくがきみに望んだことを
きみが明るい世界に帰ることを
エーリクはやれるのだろうか(文庫280p)

そして彼が待ちに待った結果、彼は何を得ただろう?得るどころか、彼はトーマにユーリを与えてしまうのである。問題のシーンを抜き出してみよう。校長先生(オスカーの実の父)が倒れ、付き添うオスカーがユーリにくっちゃべる、例の場面である。

「もし彼が死んでしまうんなら 意識のなくなるまえにぼくはどうしてもいってやりたいことがあるんだ――愛してるって!大声で耳のそばでわめいてやる」
「……校長先生を愛していた…?…でもきみはそんなそぶりなどすこしも……」
「じっさいぼくはいい生徒でもいい息子でもなかったからね…!」
「きみの手のうちはそれ?…ずっとまえぼくにいった…」
「そうだよ ぼくのカード ぼくのジョーカー でもぼくの望んだことは――気づいてくれることだったんだ きみでも彼(校長)でも ぼくが愛してるってことに」
「…許していた…?」
「うんユーリ ぼくは待っていた それだけ」(文庫426p)

ここで重要なのは、オスカーを訪れる前、明らかにはっきりとユーリがオスカーをキリストと重ねている描写があることである。

――ぼくはずいぶん長いあいだいつも不思議に思っていた――
なぜあの時 キリストはユダのうらぎりを知っていたのに彼をいかせたのか――
”いっておまえのすべきことをせよ”
みずからを十字架に近づけるようなことを
なぜユダをいかせたのか
それでもキリストはユダを愛していたのか――?
ユダもまだキリストを愛していたのか
きみも―まだ知っていて
だまっていた だまって見ていた ぼくの舞台を
ぼくがみずからをあわれんでいたあいだ――(文庫422p)

当然ながらユダとは、ユーリが作中で自分と重ねあわせている人物である(ぼくだけが彼らのなかのユダだった)。そして、上記のオスカーとユーリのやりとりは、ユーリから見て、ユダとキリストのやりとりにほかならなかったのである。もちろんオスカーとしてはそのようなつもりはなかったに違いない。彼はユーリの心が開くのを待っていた、そのためにはユーリが、自分が愛しているということに気づいてくれるのを待っているしかなかったのである。しかしながら、ユーリにとってはオスカーの言葉は、神さまは誰もを愛してくれている、としか聞こえなかった。
そして彼はオスカーに心を開くことなく、エーリクに全てを打ちあけ、エーリクが最も嫌がっていたこと、トーマとエーリクを重ねることをしながら、その頬にキスをするのである。
そうして事態を悟った聡明なオスカーはこう思うのである。

追ってもむだだろうエーリク
トーマは彼をつかまえた
だからもう待つこともないのだ
すでにユリスモールは 歩をふみ出した
そうしてそれがぼくらのわかれ わかれであり始まりであり(文庫434p)

私が知る限り、オスカーがユリスモールと呼ぶのはこの一節だけである。

救済者に押し付けられる仮面――『訪問者』

異例である。萩尾望都が6年も後に、トーマの心臓の番外編、オスカー・ライザーの幼少期を描いた『訪問者』を発表したことは、彼女のほかの作品には全く見られない異例なことである。勘がよい方はもうお気づきになっているだろうが、この作品では、私が前節で説明した、オスカー=神の構図が、よりドラスティックに、かつ残酷に示されている。彼が望んだ家の中での許される子どもになることは、『トーマの心臓』ラスト、ミュラーの養子になることが暗示され終わっている。しかしながら、彼は気づいてもらいたかったもう一人の人物に、もう一度仮面を被せられるのである。

救済者の救済――『残酷な神が支配する』

「使えないオスカー」とイアンのことを例えたバカがいた*1。ところがどうであろう?イアンがもしオスカーのように、自分を抑えて相手のことをひたすら思い続けていたなら?それこそ、『トーマの心臓』の二の舞である。
トーマの心臓』で出来なかった救済者の救済――これが『残酷な神が支配する』の裏テーマであるように思われる。
『ローマへの道』の巻末エッセイに、さそうあきらの「萩尾さんの髪の毛の南北問題」というエッセイが入っているのだが、萩尾望都において、髪型は意外と重要な位置を占めているような気がする。クリクリとした巻き毛とストレート、しかもだいたいにおいてストレートの長髪が1セットになっていることがやたらと多い(『トーマの心臓』のエーリク&オスカーとユーリ、『スターレッド』のエルグと星、その他『マージナル』『海のアリア』など)。そして私が最も注目したいのが、『残酷な神が支配する』でのジェルミ=ユダ、イアン=キリスト、の髪型構造である。ジェルミはアメリカに帰って男娼生活を送る時、髪の毛を赤く染めるが、ユダの髪は黒か赤で示される。なにより、『百億の昼と千億の夜』で萩尾望都が描いたユダとイエスの造形に、二人は良く似ている。
しかし、そのユダとキリストの性格を忠実に受け継ぎながら、ここで萩尾望都は意図的に『トーマの心臓』の反復を避けようとしているように思われる。その証拠に、ジェルミはイアンの好意、そして愛を受けることに対して、「ぼくはイアンを利用している」という言葉を頻繁に持ち出す。これはイアンを利用して、神格化することを避け、むしろジェルミ=ユダ=ユーリのしたことを、戒めるようである。
(以下追記)具体的な流れとしては、以下のとおりである。

  1. イアンの優しさにつけこみ、イアンを同じところまで落とした後(婉曲な表現…)、意外にもイアンにやったら愛されたジェルミは、イアンに自分を殺させようとする。イアンは破壊の「魔王のように迎えられ」(婉曲…)、そして「死に神として」愛される。この作品での神は、世界を創造するどころか、世界を破壊するものとして描かれているため(ここも百億の昼と千億の夜と共通している)、つまるところここでイアンは、この作品なりの神の仮面を被せられていることになる(=『トーマの心臓』の反復)。
  2. イアンがストレスから胃潰瘍になったことをきっかけに、ジェルミはイアンから離れ、もう利用しないと決意する。
  3. ところが、クリスマスが近付きジェルミの様子が急変し、イアンと二人で遭難する(婉曲)。その後、イアンのことが必要だと認識したジェルミは、専用男娼となりイアンを再び利用する。ジェルミはイアンに抱かれることで、犯した殺人の苦痛と陶酔を繰り返し味わっている。
  4. 今度はイアンの方が、ジェルミの秘密を鎖にして彼を繋ぎ留めていたことに気づき、ジェルミを解放しようとする。最後の旅行で、ジェルミは性機能を回復し、ラストへと向かう。イアンはグレッグの幻をみて、リリヤを「許す」。同時にそれはグレッグを、イアンを許すことである。神の世界が壊れ続けることが明かされ、今までジェルミを引き止めるために彼の作り上げる世界を何度も崩してきたイアンは、彼に「統合する愛」を教え、彼を「生む」。ここに親=神、ではないイアン、男性の恋人、そして兄であるイアンによる体系の中でのジェルミの再生が行われる。

更に、この三作品を追っただけでもわかるのが『神』のイメージの変容である。全てを許し、愛してくれる神から、裁きに訪れる神へ、そして支配する残酷な神へ――。それにあわせて、神の性格を併せ持つ救済者たちの表現もまた大きく変わっているのがわかる。また、愛についても同様である。アガペーから、『訪問者』で見るジェラシー、愛憎の倒錯と父への愛。そして『残酷な神が支配する』では、愛の多面性が問題となり、主人公は愛が支配であるとすら言ってのけるのである。

まとめ

トーマの心臓』で行われた、オスカーへの神の仮面の押し付けは、残酷な神が支配するでもう一度繰り返され、克服されている。また、面倒なので書かなかったが、それはエリックとバレンタインの関係にも共通している。神の性格と愛の性格についてはまたいつか。イアンの出産については早めに書きたいと思います。