救済者の救済――『残酷な神が支配する』

「使えないオスカー」とイアンのことを例えたバカがいた*1。ところがどうであろう?イアンがもしオスカーのように、自分を抑えて相手のことをひたすら思い続けていたなら?それこそ、『トーマの心臓』の二の舞である。
トーマの心臓』で出来なかった救済者の救済――これが『残酷な神が支配する』の裏テーマであるように思われる。
『ローマへの道』の巻末エッセイに、さそうあきらの「萩尾さんの髪の毛の南北問題」というエッセイが入っているのだが、萩尾望都において、髪型は意外と重要な位置を占めているような気がする。クリクリとした巻き毛とストレート、しかもだいたいにおいてストレートの長髪が1セットになっていることがやたらと多い(『トーマの心臓』のエーリク&オスカーとユーリ、『スターレッド』のエルグと星、その他『マージナル』『海のアリア』など)。そして私が最も注目したいのが、『残酷な神が支配する』でのジェルミ=ユダ、イアン=キリスト、の髪型構造である。ジェルミはアメリカに帰って男娼生活を送る時、髪の毛を赤く染めるが、ユダの髪は黒か赤で示される。なにより、『百億の昼と千億の夜』で萩尾望都が描いたユダとイエスの造形に、二人は良く似ている。
しかし、そのユダとキリストの性格を忠実に受け継ぎながら、ここで萩尾望都は意図的に『トーマの心臓』の反復を避けようとしているように思われる。その証拠に、ジェルミはイアンの好意、そして愛を受けることに対して、「ぼくはイアンを利用している」という言葉を頻繁に持ち出す。これはイアンを利用して、神格化することを避け、むしろジェルミ=ユダ=ユーリのしたことを、戒めるようである。
(以下追記)具体的な流れとしては、以下のとおりである。

  1. イアンの優しさにつけこみ、イアンを同じところまで落とした後(婉曲な表現…)、意外にもイアンにやったら愛されたジェルミは、イアンに自分を殺させようとする。イアンは破壊の「魔王のように迎えられ」(婉曲…)、そして「死に神として」愛される。この作品での神は、世界を創造するどころか、世界を破壊するものとして描かれているため(ここも百億の昼と千億の夜と共通している)、つまるところここでイアンは、この作品なりの神の仮面を被せられていることになる(=『トーマの心臓』の反復)。
  2. イアンがストレスから胃潰瘍になったことをきっかけに、ジェルミはイアンから離れ、もう利用しないと決意する。
  3. ところが、クリスマスが近付きジェルミの様子が急変し、イアンと二人で遭難する(婉曲)。その後、イアンのことが必要だと認識したジェルミは、専用男娼となりイアンを再び利用する。ジェルミはイアンに抱かれることで、犯した殺人の苦痛と陶酔を繰り返し味わっている。
  4. 今度はイアンの方が、ジェルミの秘密を鎖にして彼を繋ぎ留めていたことに気づき、ジェルミを解放しようとする。最後の旅行で、ジェルミは性機能を回復し、ラストへと向かう。イアンはグレッグの幻をみて、リリヤを「許す」。同時にそれはグレッグを、イアンを許すことである。神の世界が壊れ続けることが明かされ、今までジェルミを引き止めるために彼の作り上げる世界を何度も崩してきたイアンは、彼に「統合する愛」を教え、彼を「生む」。ここに親=神、ではないイアン、男性の恋人、そして兄であるイアンによる体系の中でのジェルミの再生が行われる。

更に、この三作品を追っただけでもわかるのが『神』のイメージの変容である。全てを許し、愛してくれる神から、裁きに訪れる神へ、そして支配する残酷な神へ――。それにあわせて、神の性格を併せ持つ救済者たちの表現もまた大きく変わっているのがわかる。また、愛についても同様である。アガペーから、『訪問者』で見るジェラシー、愛憎の倒錯と父への愛。そして『残酷な神が支配する』では、愛の多面性が問題となり、主人公は愛が支配であるとすら言ってのけるのである。