「イノセンス」への敵対宣言――プラネテス4巻感想 ASIN:4063289370

☆☆押井さんとはなーんの関係もない、フッツウの意味でのイノセンスです。っていうかプラネテスの感想。キーワードのリンクは切っておきます。

サリンジャーの作品は、彼自身がそうであったように、純粋さと正直さが度を過ぎるため、社会と迎合できぬ大人が常に主人公だ。(BANANA FISH文庫3巻 巻末・横森理香

過度のイノセンス。それはいち萩尾ファンとしては、当然見逃せない課題であり、またおよそ全ての作品にあてはめることが出来る問題だ。*1
さて、プラネテスという幸村誠の作品は、そのリアリスティックな宇宙の書き込みと、それに対してヒト個人の精神世界を対比させ、私に感銘を与えた一冊である。――というより、であった。第一部完結の今巻では、フィーという女性を中心に、デブリ宇宙ゴミ)拡散=ケスラー・シンドロームを引き起こし、月への軌道を死滅させる宇宙間戦争を、自分たちなりに防ごうとする様が描かれている。そこで作者は執拗に「子ども」「大人」という対比を持ち出し、フィー自身の息子と、叔父の持つ「子どもらしさ」を見ることで、大人になって忘れてしまった気持ちを取り戻す様子が描かれている。
少なくとも私は、こんなものを見せつけられて納得できる幸福な人間ではないようだ。拙稿少女漫画でトラウマって無理に脱出する必要ないよでも少し触れたが、こういった一方的なイノセントの描き方というのは、私には理解しがたいものだ。
 
まず、フィーの息子は、捨てられた犬を拾うクセがある。マンションの一室は犬だらけで、ソファーもボロボロだ。おまけに彼のしつけができていないため、鳴声が近所に迷惑をかけている。フィーはしばし躊躇った後、鳴くと反応して酸っぱい水が出る「無駄吠え防止首輪」を犬につける。息子はそれを見て、すぐさま首輪を外し、フィーを睨みつける。

あんたにも反抗の才能があってうれしいよ(フィー、P98)

そして、フィーの叔父。変わり者で、他人と上手く付き合えず、森での木の上の家で一人暮らしをしている。ある日、失踪した少女の誘拐疑惑がかけられ、何者かに家に放火されてしまう。彼は森の中に消え、少女は後に家出だと発覚する。

(燃える家を見ながら)……なんなんだ?本当にオレがいけないのか?どっちなんだ?オレと この世界と 狂っているのはどっちだ?(叔父、P187)

何から指摘すればいいのかわからないが、まず、フィーに言いたいのは、それは反抗の才能ではなくてワガママとイノセンスではないか、ということ。イノセンスは確実にどこかで犠牲を生むのだ。この場合は近隣住民が夜も眠れない。おかわいそうに。そして叔父さんのその答えは、当然「両方」だ。どちらかが狂っているという考え自体に、彼自身のイノセンスがむき出しになっているのがわかる。つまり、狂った世界にあわせて、自分の都合を捻じ曲げることが出来ない、自己を犠牲にできないのだ。だからこそ彼は社会の犠牲者になってしまう。

姉 :「私、あこがれなの」
萩尾:「何が?」
姉 :「無垢で清らかで、世の中の汚れを知らず、名もなく貧しく美しく生きるのが」
萩尾:「……」
(中略)
悪気じゃなくても、よかれと思っても、経過や結果が悪く出ることがある。だから、困りもすれば悩みもする。それを、
「ぜんぶ(私に悪気はなかったのだから、悪く取る)相手が悪いのよ」
単純にかたして自分の手を汚さないでいられるなら、こんな楽なことはない。だったら、いつ何をやっても自分は清く正しく美しくいられる。他人が汚れていくばかりで。
萩尾望都・思い出を切り抜くとき P74)

私自身の個人的な体験から言っても、自らのイノセンス固執する人間が何よりも恐ろしい。上の萩尾望都のエッセイに見られる、姉への嫌悪感はそのまま如実に作品に反映され、様々な形の無垢・無知――私の言うところの〈少女〉に翻弄される人々を、批判的に描き出すこととなる。
ここで明確に分けなければならないのは、「イノセントな人間」と「イノセントを志す人間」の差異だ。この場合、プラネテスの叔父は前者、息子は両方(イノセンスを失いたくない人間)、フィーはまぎれもない後者にあたると考えられる。(3/1追記・一番重要なところが抜けていました…;)この世の中でイノセンスを保持していくのには、萩尾の姉のように、「自分は悪くない、悪いのは世界」と、周りの世界を汚し続けるしかない。そしてこの三人は、実際にそれとほぼ近い行動を取っている。約束どおり「しつけ」が出来ない自分を責めず、犬を封じる道具に反感を表す息子。そして、フィーの場合、一度失われたイノセンスを取り戻そうとするために、彼女は軍の非開戦派ともマスコミとも手を結ばない。彼女が達成したいのは、あくまでも「イノセントな形での宇宙空間の回復と軌道の保持」であり、爆発やケスラー・シンドロームを回避することは本当の目的ではなく、イノセンスの回復が本当の目的である。汚れずにいるということは、周りを汚すことではないか。萩尾読みとしても、私としても、イノセンスを保持したがる漫画を、諸手を挙げて礼賛はできない。
そして、エピソードの最後は、あまりに唐突な言葉で締めくくられてしまう。

おいちゃん 今どこにいますか?今もあなたは大人の心と一緒に 子供の心を持ち続けていますか?私は……(フィー P244)

あまりにもイノセントで、人と話す時にはどもり、魚を釣っては焼いて暮らす叔父が、何故か大人と子供の心を持ち合わせる代表例になってしまう不思議。そして文末の「私は……」で、軌道保持に失敗しながらもフィーがイノセンスを回復したことを暗示させる。過度のイノセンスの問題は無視され、フィーが犬を拾ってくることでこの二つの伏線はあっさりと解決されてしまうのだ。それが最高に気持ち悪い。イノセンスと汚される世界の問題は、置き去りになっている。

 
全体的に見て、プラネテスは私とテーマは被っていたが、出した答えが正反対な漫画だった。「全部オレのもんだ 孤独も 苦痛も 不安も 後悔も もったいなくてタナベなんかにやれるかってんだよ」ってゆっとったハチマキ@2巻は、最高に格好よかったんだけどなぁ。一言で言うと、これまた拙稿と同じ結論だが、日出処の天子を裏返しにした感じの作品という印象で、やはり私には進むべき道が見えぬもの。示された二つの道――子供の心を持った大人と、愛――へ到る道の、なんと細く狭いことか。こんなものを読んで、一体どうしろというのか、少なくとも私は空っぽの腹の底からの怒りを原動力にするしかないのだ。フォン・ブラウン号に合格して、船内が意外と暇で、あのころの情熱全部どっかいっちゃって、それでも残ったものは「愛」だって言いたいんでしょうよ。しかし、フィーとタナベの会話が示すとおり、タナベは誰でも受け入れる博愛主義の女なのだ。でたよトラウマと無垢の構図

無垢の存在はいわばロケットみたいなものでしょう。大気圏は脱出できるけど容易に手に入らない。私は無理矢理捏造された救済者は要らない。
少女漫画でトラウマって無理に脱出する必要ないよ

サリンジャーが天才的だったのは、ホールデンがphonyいいながら、彼自身が一番phonyな存在だってこと、そしてそれをホールデンが知っていることが、うっすらわかる点なのだ。彼は自らのイノセンスを妹のフィービーの中に見つけ出そうと必死だし、また「こうはなりたくない自分」像としてのDBという兄貴が出てくる。イノセンスを巡る戦いは、決して一方的ではないのだ。インチキを指摘し続けるイノセント・ボーイ自体がインチキであり、イノセンスの一面のみを捉え、コドモだのハンコウシンだのをルビをふるのは、やはりインチキに思えてしまう。

*1:たとえば王道漫画の主人公は伝統的に心の根がイノセントであるし、逆に萩尾漫画ではイノセンスを持つものは、延々と殺され続ける。ネタバレになるので名前は挙げないでおくが、この人の作品でイノセント・ガールが死なない作品を探す方が難しい。