7、〈母〉という死への回収

李月龍(リー・ユエルン)という登場人物がいる。彼はアッシュと同じく男娼のような少年時代を過ごした。マフィアの妾の子として生まれたが、母はその血族によって目の前でレイプされ、惨殺された。アッシュと同じく人を殺す訓練を受けたが、アッシュが与えられた物に対して必死に「反抗」したのに対して彼は従順だった。男と寝ることを受け入れ、人を殺すことを躊躇わず、権力にたいして執着心を見せ、怪物になることを厭わなかった。その彼には、英二という無垢を囲っておくことでアッシュが救われているのが許せなかった。よって彼はディノ・ゴルツィネと共同戦線を張り、ブランカ、というアッシュに兵法をたたきこんだ師匠を引っ張り出して奥村英二の命を脅かす。そして、奥村英二の安全と引き換えの取引を行うために、アッシュを倉庫に呼び出す。月龍はこういう。

いうことをきいてくれるんなら もう2度と彼には手を出さない
君の生命とひきかえに誓うよ(『BANANA FISH』vol.8 p.31)

アッシュは躊躇わずに自分の頭に銃を当て、引き金を引いた。
幸いにも、月龍の本当の要求とはバナナフィッシュのデータとアッシュの生きたままの拘束であり、銃弾は空だった。またも、〈母〉的な存在には何の批判も投げかけられず、無自覚な憧憬ばかりが寄せられ、そしてその為には主人公は自己犠牲をものともしない。そこでは〈主体性〉は「封印」され、その片鱗さえうかがわせない。またである。その後の二人の会話からは、アッシュの〈何故〉という問いかけの封印が見てとれるだろう。

アッシュ「――銃弾が入ってない 銃弾をよこせよ」
月龍  「プライドってもんがないのか君は!!
     あんなやつのために―――なんでそんなに簡単に……
     なんで――――なんで そんなに簡単なんだ!
アッシュ「…何言ってんだおまえは… 死んでみせろといったのはおまえだろう
(『BANANA FISH』vol.8 pp.34-36)

そして最終回、アッシュは英二に対してこの様に口にする。

あいつがそばにいてくれると…あいつのやさしさや誠実さや――――
あたたかさがどんどんおれの身体に流れこんできて
おれを満たしてくれるのがわかった
(『BANANA FISH』 vol.11 p.279)

この母胎回帰願望のようなものが最後の決定打だった。アッシュ・リンクスは〈母〉的存在によって生きる意志という〈主体性〉を奪われ、そして幸福に死んだ。それは、メッシュの死とあまりにもダブって見える。