高慢であること 高尾滋『てるてる×少年』−『ゴールデン・デイズ』に絡めて

のんびり

てるてる×少年 第11巻 (花とゆめCOMICS)

てるてる×少年 第11巻 (花とゆめCOMICS)

『ゴールデン・デイズ』があまりに素晴らしいので、最初の方で止まっていた『てるてる×少年』も読んだ。まったくもって素晴らしい。高尾滋なしでことしの9ヶ月を生きてきたことが不思議なほどである。ただし、『ゴールデン・デイズ』には及ばない。


実は、よくよく読んでみると、この2作品は同じような構造にある。
まず、主従関係がある。主導権を握るものと、それに追従するものがいる。追従者は、二つのアイデンティティの間を彷徨っている。彷徨わせているのは、実は主導者である。ところが、主導者の側は、二つの相反するものを、彼に比べてうまく扱い、表出させている。そして主導者は美しく、品のある顔立ちで綺麗な言葉を紡ぎ、自分に、自分の容姿に絶対の自信を持っている。まさに高慢である。が、その鼻のかけかたはちっとも鼻につかないから凄い。
主人公の「しの」は、ブスと言われてこう言葉を返す。

「バカ介 中傷っていうのはね 人を傷つける行為である以上 対象者の弱みの本質を正確に突く必要があるのよ? よってしのは美人だから 痛くもカユくもないでしょう? ホホホホ」

なんとも清清しい。羨ましいものである。
ところが、この主導者は実は追従者に守られることを予定される者でもある。そのことが、物語を時に逆転させ、時に固定させる。つまり、主導者の願いむなしく追従者は主導者のために、その体を投げ出しかねない。身も蓋もない言い方をしてしまえば、ふたつの物語とも、あらかじめ自己犠牲が予期される物語なのだ。ただし、どろどろしていたり、重いばかりではない。むしろ、作品のリズムはいたって軽快だ。そのあたりのバランスがなんとも上手い。


結果からいうと、私は『ゴールデン・デイズ』の方が何倍も好きだ。たぶんそれは、私の大正時代への尽きぬ憧れがあるだろうし、また少年愛への否応なしの執着もあるのだろうが、ゴールデン・デイズはその強制と自由意志のバランスがより良いように思える。これについてはまた近いうちに述べるが、およそそこでの「強制」とは時代にまつわることのみであって、その意思の発露はつねに、薄く美しい反抗の色を帯びる。逆に、あまりに掟だ歴史だに縛られた『てるてる』では、たとえば才蔵の、千代の、三島の人々の行動は、ひどくわけのわからないものに縛られた形式的なものに見える。その間にある感情が見えづらい。千代と紫信、もしくは左助の関係は一体どうなってしまったのだろうか。そして、何よりもそれに縛られていたのは母ではなかったのか。彼女が彼女の決断を、もっとずっと前に出来ていれば、何の悲劇も起こらなかったというようにしか読めない。そんな女に入れ込んでいる某も某だ。最後の方に到っては、なんだか『塗仏の宴』のラストみたいなドタバタ感だった。そんなこんなで(?)、左助が大好きな私は置いてきぼりを喰らった気分だった。
それに、やっぱり男同士は対等で良い。主従は逆だが、男が女を守る話なんてありふれている。それに比べて、ゴールデン・デイズでのナイトの圧倒的な無力さには心をくすぐられるものがある。そういう意味で、自分の嗜好を研究するいい比較材料になった。それにしても高尾滋は良い。ひとこま一こまを詩のように愛せるのは佐藤史生高尾滋くらいのものだ。佐藤の持つウィットに富む会話こそないが(おそらく吉野朔実が持っているそれと同質)、人物間の間や触れ合いがいちいち抑え気味で、それが素晴らしい効果を呼んでいる。11巻のうち、足に触ったり口付けするシーンが3箇所あったが、独特の線の柔らかさと張りが、どれもこれも本当に美しい。




それにしてもこのタイトルはどういう意味なんだろう、と思った11冊。ごちそうさまでした。