他者の欲望を写す鏡、メッシュ、ことフランソワーズ

作中でメッシュは美少年として描かれており、幾度も女装をする。性別の間を自由に揺れ動くメッシュのイメージは著しく不安定で、全11話中ミロンのエピソードを除けば全てである10話で「他人の欲望するイメージを被せられている」。ここで、エピソードのおさらいと一緒に抜き出してみよう(カッコ内はイメージの受信者を示す。また、作品は発表順ではなく文庫収録順とした)。

  • 「メッシュ」(1980)…天使(ミロン)→後、天使でも悪魔でもない生き物(ミロン)
  • 「ルージュ」(1980)…マウルベルチュの「囚われた処女」(ミロン)
  • 「ブラン」(1981) …奥さんの替わりの美少年(アンブロワーズ・ブラン)、女の子→後、自分に恋する美少年(鑑定家モリス・シードロ)
  • 「春の骨」(1981)…死神(劇作家ジェルダン)
  • 「モンマルトル」(1981)… 女性、女友達(ジュジュ、カティ)
  • 「革命」(1981)…大恋愛の相手(精神病患者のポール・ローラン)
  • 「耳をかたむけて」(1982) …同居人ミロンの話のため特になし
  • 「千の矢」(1982)…天使(エトゥアール)
  • 「苦手な人種」(1982)…ロック歌手の恋人(ルー)
  • 「謝肉祭」(1983)…無性の精霊(オズ)、娼婦(ルシアン)
  • 「シュールな愛のリアルな死」(1984)…マルセリーナの娘フランソワーズ(マルセリーナ、その夫ルビエ、異母兄弟ルイード、メッシュを犯したパジャンらの不良)

このようにメッシュのイメージは男性・中性・女性、天使・死神・精霊と幅広い広がりをみせる。メッシュとしてはその表象されたモノになろうという気はまったく無いといってよく、とりわけ芸術家が彼に魅せられて彼を作品に使いたがるごとに気乗りしなさそうでもある。「春の骨」では終始気恥ずかしそうにしているし、「千の矢」でも作品の完成を見る前に家を出て行ってしまうし、「謝肉祭」でもモデルの辞退を申し出ている。さらに、メッシュは他人の潜在願望を引き出してしまうこともある。よってそれを直視できない人々はメッシュによって崩壊させられることにもなる。「春の骨」において、本当は前妻と分かれたくないがために自殺願望を抱いているジェルダンや(参考画像)「謝肉祭」において、父親がいかがわしい女装パブで死んだために、自分は真っ当な人間になると固く決意しているものの、少年であるメッシュに欲望をそそられてしまい、自我が崩壊して自殺するルシアン(参考画像)などはそのいい例である。驚くべきことに、これらはメッシュ自身の行動や服装が引き起こした結果ではなく、ただそこに佇むメッシュを見て相手のイマジネーションが喚起された結果として描かれている。そのイマジネーションの元が、受信者側の欲望だというわけだ。
それでも萩尾望都は、執拗にメッシュという存在にイメージを被せ続ける。メッシュが様々な動物のダンスを踊り、ミロンがそれを当てるゲームをする「MOVEMENT Ⅰ」は、何にでも化けるメッシュという存在が端的に表されている。そして、それをちっとも読み取れないミロンとメッシュの関係を描いたもの、ということもできるだろう。ミロンはメッシュに何の役割も演じてもらおうとしない。そういった欲望がないから、唯一メッシュと一緒にいることができる存在なのである。

【画像2】
また、このイメージの提出の仕方はある意味エドガー・ポーツネルのそれと鏡写しであるということが出来る。エドガーは、といってもそれはその自身の不死性に起因するものだが、多くのイメージを各所でばら撒き、その痕跡を残し、結局人々は残されたイメージを総合して、人ではないモノ・バンパネラエドガー・ポーツネルという一人の存在に突き当たる。一方、メッシュは実存する少年として人々の目前にあるにも関わらず、その実体はとても掴みがたく散漫として漂っている。唯一メッシュの本性を理解しているのは、同居人の贋作画家ミロンだ。「…あの晩オレが拾ったのはなんだったんだろう?天使じゃなくて?悪魔でもなくて――?二色毛の―?なんて生き物を拾ったのだろう――?」(vol.1, pp.54-55)ここでミロンが表現する〈なまえのない生き物〉は、メッシュを的確に捉えた表現ということができるだろう。


【画像3】
ならば何故メッシュはそのような存在になったのだろうか?それは父親の影響によるところが大きい*1。彼を疎み、スイスの寄宿舎に放り込んでいたのは父・サムソンだ。サムソンはメッシュの母マルシェが男と駆け落ちしたため、メッシュも自分の子ではないと疑っていた。しかし、自分の父と同じメッシュの遺伝が彼に現れはじめた十四の頃、「無関心の手のひら返して」彼にギャングのボスを継がせようとし始める(参考画像)。つまり、彼のメッシュは母を必要とする「寄宿舎の子ども」から「ギャングの跡継ぎ」への彼の外的存在理由の劇的な転換を象徴し、母への一体化を志向する存在から父性を受け継ぐ存在の変化を意味している。それゆえ、メッシュは男性的な性役割をやわらかく回避している。だが、先にも述べたように彼自身が目指すべき明確なイメージを持っているというわけではなく、だからこそメッシュは他人の欲望を写す鏡として存在するのである。髪の“メッシュ”は彼の不確定性の象徴なのだ。
注目すべきは、そんな彼が唯一、〈なりたい自分像〉を認識できるのは、皮肉にもその父親と対峙したときだけである、という点だ




【画像4】
メッシュが作中最も自主的に行動するのがサムソンを殺すための準備である。「父親という名のもとに 支配し拘束し圧殺する 息子という名の奴隷を欲しがってるんだ」(vol.1 p98)と感じているメッシュは、「あいつを殺さない限りオレは人間になれない」(同p110)とすら感じている(裏を返せば、今のメッシュの自己認識は一個の人間ではないことを意味する。それはメッシュのイメージの提出のされかたと合致する)。
このように、普段は主体性のない少年が、父親との反発においてのみその主体性を発揮するというテーマは、これから論じることになる『BANANA FISH』や果ては『新世紀エヴァンゲリオン』にすら見ることが出来、普遍性のあるものということができるかもしれない。ここでは、このように、自らの役割を押し付けようとして反発を引き起こす父親との軋轢を「反抗」と呼ぶことにする。これは大抵「戦闘」を引き起こし、また主人公の〈主体のようなもの〉はその戦闘においてのみ見え隠れする。


*1:たしかにメッシュは女名をもって生まれてくるが、彼を少女だと思い込んでいた母・マルセリーナ(マルシェ)と一緒にいたのは二歳までで、彼自身、最終話「シュールな愛のリアルな死」で「女名をつけたわけを聞いたこともない」(vol.3 p170)という