2、「反抗」対象としての父と「戦闘」の発生

拙稿『メッシュ精読』での定義をもう一度持ち出させていただくなら、自らの役割を押し付けようとして反発を引き起こす父親との軋轢が「反抗」であり、これは大抵「戦闘」を伴う。また主人公の〈主体のようなもの〉はその戦闘においてのみ見え隠れする――ということになる。
『メッシュ』の主人公であるメッシュ(フランソワーズ)、そして『BANANA FISH』の主人公であるアッシュの、お互いの父親に関する規定は非常に似通っている。両方ともマフィアのボスで、息子を後継者にしたがっている(アッシュの場合は、元々は男娼だったが、物語中盤で養子縁組を行う)。そして彼らはその行動を「支配」という言葉で規定する。
一つだけ二人に大きな違いがあるとしたら、その「反抗」の仕方だ。メッシュは弱いが故に、銃とナイフと戦争を求め、自ら父の命を取りにいこうとする。ところがアッシュは強いが故に、多くの敵から攻め込まれる。そしてこうこぼす――「まったくわざわざ出かけてって人を殺したいって奴の気持ちがわかんねぇよ。おれなんか殺したくなくたってむこうが殺しにきやがるってのに(vol.10 p.140)」と言い、直接的な戦闘ではなく、ゴルツィネの裏をかき、策略をジャマすることで反抗しようと試みる。しかし一方で、『BANANA FISH』という作品自体が、「戦闘」をメインとした物語であることは否めない。メッシュが最初の二話で父との対決を切り上げ、それからはひたすら、最終回の「母による死」への伏線を提出し続けたのに対して、BANANA FISHのラスボスは父・ゴルツィネであり、それゆえ戦闘こそが話のメインとなる。これは、物語間における相違というよりは、むしろ対称といってよい相似であり、やはり共通点と言うことができる。

  • 『メッシュ』……メッシュは不良行為が苦手で、それ故「戦闘」を求める。父殺しは最初の二話に終結し、それ以降は主体性を失ったメッシュがついに母親の夢に飲み込まれるまでの過程をオムニバス形式で描く。
  • BANANA FISH』……メッシュと違って男娼だったアッシュは、他人に攻撃され続ける人生を送っており、半ば強制的に「戦闘」に巻き込まれてはいるが、父殺しが最期までテーマとして存在しているため、物語は「戦闘」をメインにすすんでいく*1しかしながら、作品の所々で主体性を失った彼を垣間見ることができる(後述)。

また、このような支配を受けたアッシュの自己規定は〈人間でない生き物〉もしくは〈何も感じず人を殺す怪物〉であり、両方とも父に対するメッシュの自己規定と*2共通している。

あいつは相手をさせる連中を人間とも生き物とも思っちゃいなかった
ただのもの言うセックスの道具さ
…オレのことも最初は脳みそがあるとも思っちゃいなかったろう
(『BANANA FISH』vol.4 p.272)

*1:吉田秋生の描く異端児は、24年組の中では最も木原敏江に近い。つまり、美しいが故に犯され、疎外される人物だ。叶小夜子しかり、アッシュ・リンクスしかり、果ては超人類の有末静・凛が登場した。ここで、作品内には小さな矛盾が生じることになる――『摩利と新吾』に対する拙稿参照――つまり、美しいことを楽しむ心と悲しむ心の描写が同居することになり、作品のテーマを分断しかねない。しかし、『BANANA FISH』では1.アッシュと英二の関係をプラトニックに保ち、2.さらにアッシュを男娼にし、3.攻撃する側ではなくされる側にアッシュを置くことで、そのバランスをギリギリのところで保っている(のではないか。試論。要検討)。

*2:後者は『残酷な神が支配する』の主人公ジェルミとも