上野千鶴子氏による「少年愛」読解を批評する(1):ミソジナスな「少年愛」を彼女が礼賛する理由

lepantoh2006-09-19



これは、ひどいです。といっても、私は不勉強なので、もしこの文章に対しての反証がすでに成されいるなら教えて欲しいと思います。もし成されていないのだとしたら、その状況も相当に酷いのですが、同時に「これぞ少女漫画評論界!」って感じでもあります(オホホ)。あら、目の前に広大な乾いた荒野が見えるわ、頬をなでる風の気持ち良いこと。
以前、「暗くてよく見えん」少女漫画評論と「ジェンダーレス・ワールド」の話を書いた時、私はその問題が誰によってどう成されたかを先送りにしました。今日はその続きとして(前のは読まなくておk)、少女漫画評論がフェミニストによって、フェミニズムと同じ傷を抱えることになった状況をもう少し詳しく見ていくことにしましょう。



問題となるテキスト、「ジェンダーレス・ワールドの〈愛〉の実験」について

発情装置―エロスのシナリオ

発情装置―エロスのシナリオ

『発情装置』に所収されたこのテキストの発表は89年です。17年も前のテキストであることは、言葉の定義が曖昧で(後述)あることの免罪符となりうるかも知れませんが、ここでの読解が、この本の編集者である藤本由香里氏によって98年に発行された『私の居場所はどこにあるの?』で批判されることなく受け継がれているとなれば話は別でしょう*1。また、もうひとつの問題として、それ以外にも、この論文への検証という態度をなしに、上野氏の読解を援用している例があることが挙げられます。誤解を恐れずに言えば、それが上野氏のものでなくとも、誰かによって提出された少女漫画史を批判的に検討するという態度は現在ほぼ皆無でしょう*2


当時、上野氏は大塚英志氏と論争をしていたようですが、私は双方の言い分に見るべき重要な指摘があり、また双方の指摘にそれ相応の落ち度があったと思います。しかし、私にとって大塚氏のそれよりも上野氏のそれの方がやや悪質な印象でした。大塚氏はその論文で男性による出産を指摘しましたが、上野氏はどのような指摘をしたのでしょう。まず最初に、この論文によって達成された部分を見ていきましょう。



なぜ24年組は少年を主人公とした漫画を書いたか、に対する上野氏の洞察


最も注目すべき点は、少年愛の物語が女性嫌悪ミソジニー)を内包している、という指摘でしょう。この指摘はそのまま藤本の前掲書にも引き継がれているので、読んだことのある人もいるかも知れません。しかし、この指摘の達成は同時に私にひとつの疑問を抱かせます。最近ですら上野氏は「ミソジナスなゲイとは共闘できない」という発言をしていたほど。ならば、ミソジニーを内包した作品群のどこに、フェミニストである彼女は接点を見出したのでしょう?
その接点が、「少年愛の少年とは『少女』でも『少年』でもない『もう一つの性』(p.131)」であり「第三の性(p.131)」というこの文章の主張です。彼女にとっては、この第三の性こそ、女性によって創り出された女性のための、この世の“男/女というシステムへのカウンター”なのです(よってミソジニーは“相殺”されます)。この主張自体の不完全さは後で指摘するとして、そこに立脚したいくつかの重要な指摘を引用します。

少女漫画家が描く「少年愛」の世界に、フロイト主義者ならただちに少女の少年に対するペニス羨望を読みとるだろう。少女には禁じられた自由や野心や欲望が少年の世界にはあり、しかもそれは女無用の純潔な世界であることで聖化される。少女マンガ化の多くは、純潔/汚れ、非日常性/日常性、特権/悲惨、非凡/凡庸、冒険/退屈、崇高/卑俗、彼岸的/此岸的etc.という男/女の記号性を、受け容れているように見える。女であることは「あーやだやだ」というため息が聞こえてきそうな彼女たちの女性性への嫌悪は、しばしば短絡的に男性羨望だと解釈されやすい。
性が二つしかないと仮定すれば、一方の性を否定することは、自動的に他方の性を肯定することにつながる。だがほんとうにそうだろうか?(pp.127-128、太字は傍点部)

この問題提起自体はまったくもって正しく思えます。私もmixiで良く知らない人(ヘテロ男性)から「あなたが持っているのはペニス羨望だ」と言われて激怒したことがありますから。

だがなぜ、少女漫画家は「理想化された自己」を表現するために「少年」という装置の助けを借りなければならなかったのだろうか。それは地に堕ちた現実から自己を切断するための仕掛けであり、かつ性という危険な物を自分の身体から切り離して操作するための安全装置、少女にとって飛ぶための翼であった。(p.131、太字は傍点部)

上記の問題提起から少年を第三の性とした後の問題提起です。この答えとして、

などを中心に論が展開していきますが、とりわけ、少年愛ものが少女漫画において初めて濃厚なベッドシーンを描いたという指摘は重要です。なぜ、それは少年同士の間でなされなくてはならなかったのかという問いに、上野氏は、少年においては「性的な身体という危険物を自分から隔離して操作する(p.140)」ことができるため、という説得力のある答えを提示しています。また、少年愛ものの少年が恋愛の対象になるか否かという問題も、彼らが「第三の性」であるがゆえ、否とはっきり否定しています。



では、上野論文の何が問題だったのか――私の「問題提起」

さて、上野論文には、今でも有効な部分と、まったく無効な部分が複雑に絡み合っています。良い文章ばかりを読解させられてきた学生には難しいことこの上ない選別作業です。そこで、私はわたしなりの問題意識をあらかじめ整理しておきたいと思います。


1、性別やセクシュアリティに関する用語の定義があまりに曖昧であり、また正確ではないことが問題である。
2、少女漫画における少年愛の読解が足りず、少年愛作品そのものの変貌を看破できていないのが問題である。
3、そのため、少年愛やおいの区別がなされておらず、やおいに関するテキストと少年愛に関するテキストが混同されているのが問題である。


長くなったので、明日の分でこれらの問題を中心に上野論文をもう少し読み解きたいと思います。 Don't miss it!

*1:『私の〜』への反論はまたいつかするかも知れませんが、ネットではToo Muchな内容なので未定です(いちおう紙媒体では反論済み)

*2:一応弁解しておきますが、彼女たちが提出してるのが正しい史観ではないから糾弾しているのではなく、明らかな誤読、ミスリード、事実誤認がある部分を批判しようとしているだけです。