『隠喩としての少年愛』は“珍しく”批評精神溢れる少年愛/やおい考

lepantoh2007-01-09

誉めることにしよう。
なかなか信じてもらえないのだけど、わたしは目にしたものは大抵誉める主義なのだ。普段は「魔界のいい人」になるべく人の傷口を嬉々としてえぐり、好んで再起不能にしようと心がけているだけで……。

隠喩としての少年愛―女性の少年愛嗜好という現象

隠喩としての少年愛―女性の少年愛嗜好という現象

■ 前 提 が お か し い


それにしてもこんなに誉めるのが難しい本はない。
そもそも、わたしに言わせれば『隠喩としての少年愛 女性の少年愛嗜好という現象』というタイトルが示すものはズレまくり、そもそもの問題設定からして間違っている。このタイトルがあからさまに示している通り、水間は「女性が男性同性愛に対して“魅了”という言葉が使えるほどに強い興味を持つことで、その心理は、広範囲にわたる文化・風俗現象を引き起こしてきた(p.9)」ということを本書の中心的な話題に据えているのだけども、そこに萩尾望都を含めようとするのは、いち萩尾望都のファンとしてはっきり間違いだと指摘できる。そして著者が24年組について指摘する、「女性の少年愛嗜好について語られる際に二十四年組のテーマが論じられることなく、恣意的にそこでの性描写の有無やその過激さの度合いだけで読者である女性の性の開放度として読み取られた」という主張は、まあ言ってしまえばこの本でも最も重要な指摘ではあるのだが、「テーマ」を語ることそれ自体を、「女性の少年愛嗜好」という切り口こそがそれを邪魔しているのだ、ということに何故気づかないのかと見ていて苛立たしい思いがする。
それが最もひどい形で現れているのは、井亀あおいにまつわる章で、そこで井亀あおいを持ち出してくるセンスをわたしは高く評価したいのだが(わたしは寡聞にして存じ上げなかった)、井亀あおいが『ヴェニスに死す』のアッシェンバッハのような美を追い求める男性にひどく感情移入すると述べる文章の解釈といったら、それはひどいものである。井亀は「自分で自分の中に男性が内在するのではないかと思う」「私の観点は中年男のそれだ」「正常人が私の年代にある時のあの憧れのような清純なものではない」「ああ自分そっくりだと思ったものだ」などと並べ連ねているのにもかかわらず、水間は「風俗現象としての少年愛嗜好と自分のそれが別物であると考えることは、多くこの嗜好を持った女性に見られることである(p.144)」なぞと一蹴し、「文中で少年に対する執着が〈同性愛的なものでない〉とするのも、自分の考えている少年愛が、世俗的な意味での「ホモ」とは異なると考えたからのようである(p.144-145)」と勝手に付け足して、狭量な「女性の少年愛嗜好」とやらに押し込めてしまう。わたしは井亀のもつ「中年男性」的な(これこそ隠喩であろう)視点での少年/少女への眼差しは萩尾望都高原英理と共通するものを感じ、そしてそれはやおいやBL文化とはまったくもって別質なものであると考えるが、水間は「そこにあらわれている感性は、二十四年組の諸作品にも共通する当時の少女たちの中年男性に対する親和性といえる。そしてそれは、自らを「少女」の立場に戻し、中年男性を依存対象としてみて、以下のようなファンタジーに形を変えて表れていたのでもある。」と、すぐに理想的な父子関係への夢想の問題へと移ってしまう。ここで、「中年男性に対する親和性」が二十四年組のどの作品に表れていたのかはまったく不明であるし*1、また何より「少年愛嗜好」が何であるのかすら不明になっている。
もうひとつ、タイトルに含まれる「隠喩としての」という語がまた厄介だ。著者はこのように言う。

ところで、女性の少年愛嗜好について語られる場合、通例となっていることは、女性の少年愛嗜好の少年愛と現実の男性同性愛がいかに違うかといった話に終始することである。そこでは、この嗜好を持った女性達が実際の男性同性愛についてどれほど知らないかということばかりが話題となる。(p.15)

水間の谷川たまゑ名義での論文も読んだが、彼女は少年愛評論の一部だけを取り上げて『少年愛評論は意図的に一部しか取り上げておらず本来のテーマを無視している』と主張するタイプの論者」であることがわかった。これは厄介なタイプであり、鵜呑みにしてしまうと非常に危険である。たとえば、作者や読者が口々に主張する「対等性」という魅力については一切触れられていない、もしくは「女性が劣位に置かれているという差別的な目線がある」という彼女の論に組み込まれてしまう。*2
このような主張に基づき、著者は溝口論文を取り上げない理由を「この種の政治的意図に基づく解釈は、女性の少年愛嗜好における男性同性愛をあくまで実際の男性同性愛に隷属すると捉えていることが前提となっている」からだ、としている(p.18)のだが、これは言い逃れもいいところである。以前『やおい小説論』を評したときにも軽く触れたが、そこで引用されている「フジミ」シリーズやその他の媒体で、「ゲイ」や「ホモ」が名指しで比較対象となっていることが頻繁にあるのだから、これは隠喩どころか「直喩」であり、それが読まれる場や人々によって好ましく映らないことは想像に難くない。「政治的意図」などに基づかなくても、「実際の男性同性愛に隷属する」と見做さなくても、テキストの生じる作用が批判されることは容易に考えられる。ところが、水間は終章の最後で「フジミ」シリーズに一定の評価を与え、さらに「ヤオイの限界とでもいうべき瑕疵」を追記するときも、そのセックス描写の激しさや陳腐さにしか言及しないのだから、その態度といったら彼女が否定してきたものと全く変わらないのである。



■しかし、なかなかどうしてロックなんである


しかしながら、「誉める」ことにするのは、作者のこういったスルー力のなさを、わたしが非常に好ましく思うからである。
多くの論考が溝口論文を「なかったこと」として、正面から批判するでも検討するでもなく素通りしていったのに対し、水間の「手を出さずにいられなかった」感じは、たとえその結果がわたしには好ましくなくとも肯定すべきことだと感じる。こんなこといっていいのかわからないけれど、わたしにとってはやおい評論界は、論者の立ち位置からし上野千鶴子さんの論調に影響を受けたものが多くあるように見受けられていた。一方で水間は谷川たまゑ名義の時代から上野系(?)を批評していた人だけあって、既存の言説を検証・検討してそれに対する態度を示すという点で珍しく真摯な姿勢を感じられるこの界隈の論者で、それゆえ色々なところに突撃して誤爆してもいるが、それでも触れもしないよりはよっぽどマシであろう。
その良さが最も表れているのが終章であって、ここでは谷川時代の上野・大塚への批評がなくなっているのが非常に残念ではあるが、金井美恵子中沢新一、そして今でも「少女漫画を理解している男の人」の代表例に持ち上げられる橋本治といった人々に隠れ見える「女性差別」を指摘し、「識者」による少年愛の不理解があたかもフェミニズムのように扱われてきた現実を強く批判する一節は水間にしか出来なかった仕事として高く評価されるべきだ。その結論として、24年組に対する識者の色眼鏡へのアンチテーゼとしてやおいが登場した、なんていう論を持ってきてしまうあたりにはわたしは明確に意見を異にするのだが……(そのあたりは美徳の不幸のt-kawaseさんが引用して検証している)。
また、前半の「やおい」を『残酷な神が支配する』と比較して「SM的な構造を持った、そこでは暴力が愛だと切実に主張されている少年愛ものの作品」と定義づけたり、『残酷な〜』や『日出処の天子』をやおいへの自己批評的な作品として検証しているところなんかは、わたしは興味深く肯定的な自分を見つけるし、精神分析を援用するという手法にも自覚的であるように感じられる。正直、萩尾望都作品の読解には異論を挟みたくなるところもあったが、それ以上に気づかされていなかった部分に出会うことができ、自分自身の評論の立場を大きく転換せざるを得なかった。ほかにも山岸凉子を水間は中心的な課題として扱っており、研究者には有益な情報が多く含まれていることと思われる。それに、「少年愛嗜好」が多岐にわたるため一人の嗜好を語ったところで常に違和をもたらすだけであること、また、それが常に「新しい」奇特な風俗として扱われてきたことなどを指摘するのも正しい。もっとも、それが多様性の肯定に働くとは限らず、井亀の例のように、それらがすべて水間の思う一元的「少年愛嗜好」の名に回帰していく構造は問題ではあるのだが、要は、前提がおかしいから、まとめも何か変かもね、ということさえ解っていれば、細部の読解自体は、賛同するにしろ違和を覚えるにしろ非常に参考になるものが多く、「少女漫画評論に足りないのは言説の質ではなく量である」というわたしの持論を良い意味で強化してくれている。そもそも、ここでわたしが「間違った」と断定していることには何の担保もないのだ。わたしなぞただの反やおい/BL的な24年組信奉者で、その点だけ評価しているだけではないか、と非難するものもいるかも知れないではないか。だから、せめてもの償いにわたしは間違ったものだからといって嫌いになるとは限らない、間違っていると感じることを参考にするように心がけているのだ。


何より、水間自身の言葉を借りれば、水間が「高度な批評精神」を抱えていることが有難いのである。水間は、金井や橋本の文章を、部分的に否定し、部分的に賛同するという態度を示しているが、それは私がこの文章に対して持った感想と同様であり、その意識がゆえにこの文章を誉めざるを得ないのである。そのほかの「スルー力」旺盛な他論文は、なんだか批評したらあたかも全否定されたかのように逆上されそうで、正直いって怖いのであるが、水間自身はそんなことはないだろうと思わせる。在野の研究家として既存の言説を臆することなく斬っていく様は、少なくとも「第三の〜」とか「第四の〜」と項付けをして“革新性を捏造するという保守的な論文”より、そして「擬態」とか「安全圏」とかなんとか言って旧来のジェンダー・システムに籠っていることを誤魔化している論考より、ずっとずっとロックなのではないか。
さらに、わたしの批判する彼女のまとめテンプレート「隠喩」と「少年愛嗜好」を捨て、彼女が指摘する「本来のテーマ」や精神分析を援用した父・母の関係で少女漫画およびやおいの関連をまとめなおすことが出来れば、この本は読者にとって有益になるのではないか、と私は考えている。24年組やおいを繋ぐのに「識者の批評」なんてものを持ってくるからトンデモに見えてしまうのだ。


それにしても、少年愛の評論には、10年以上にわたり同じ間違った(とわたしが感じる)主張を繰り返している論者が多い。きっと誰も批判されずに放置されてきたのであろう。そういうのが積み重なってわたしには重荷に感じられるのだが、いっぽうで水間さんがこの書評を読んだところで、わたしなら「なんだこの匿名の若造は、勝手なことを抜かすな」と思うだけであろうから、何か建設的な意義を成しえるとは到底思えない。オフ・ラインの人となれば「ゴチャゴチャいう前に学会で論文発表してみろ」とか「単著もないのに」といったことになりそうで、またわたしとしては「論文といフォーマットでは検証をするには足りない」とか「知り合いが増えると批判しづらくなるので嫌だ」ということになる。はたしてどうやって少女漫画評論をしていくべきか、というのは重大な問題であって、どうも更新意欲が落ちているのはそのためである。個人的には水間さんのような在野の方こそブログなんかをやって欲しいものだが……。

*1:風と木の詩』のボナールとかかしらん

*2:一方で、不遜ながら自説を述べさせていただけば、「対等」というのはもちろん少年愛の重大なモチーフであり、これは「ジェンダー論」にはほとんど取り上げられることのない彼らの特権性やナルシシズム、そして自主性といったテーゼと密に関係している。主人公はおおよそ多くのことを叶えてきた人物であるが、自分と同様に美しい相手が、自主性を持つ対等な存在であるがために自らの思い通りにはならない、というところに「少年愛」の真髄がある。それゆえ少年愛はつねに「犠牲」「献身」そして「死」を孕み、その観点から言ってわたしは『ゴールデン・デイズ』を大絶賛しているのである。この種の議論を水間も「全能感の断念という少年愛嗜好の普遍的で倫理的な帰結」として指摘しているが、論考部分は少ない