『Glee』テレビは万能だ――劇場は何のためにある?

Glee: Season 1 V.1: Road to Sectionals [DVD] [Import]
2010年、私がもっともハマッたものは、ついに「アメリカのドラマ」となりそうだ。とはいえ、ハマッているのは何も私だけではない。ドラマのアルバムはビルボード1位になったし、エミー賞にも最多ノミネートされた。コンサートのチケットにはプレミアがついた。その正体は……アメリカのオハイオ州合唱部を舞台としたFOXドラマ『Glee』。

■ ハチャメチャ

そもそも、『Glee』はメチャメチャなドラマだ。『Glee』なのに、主人公のレイチェルはドラマの開始早々、顧問の教師が自分ではない人にソロを与えたといってグリー部を抜け、「キャバレー」を上演する演劇部に移籍して、数話戻らない。グリー部は、クラスがないことによる、アメリカ特有の部活をベースをしたヒエラルキーの文句なしの最下層にいる。メンバーは、自己中心的なエゴの塊であるレイチェル、ゲイのカート、太った黒人のメルセデス言語障害のアジア人ティナ、そして車椅子のアーティーアメリカのヒエラルキーに照らせば、ナード(オタク)と呼ばれる層だ。その5人に、学校のスターでもあるフィンが加わる。フィンは食物連鎖の頂点に君臨するフットボールの花形クォーターバックだ。しかし、これも加入の最初のきっかけは、顧問のウィル・シュースターがフィン欲しさに、彼のロッカーでマリファナを見つけたと脅したこと(!)。さらに、フィンの友人で、ナードたちを虐めてたグループのリーダー格であるパックがグリー部に入部する最初のきっかけは、彼がクーガー(年上の女)にハマり、アピールするためだった。主人公のレイチェルは第1シーズンだけで4人もの男と恋におちる。しかも相手は全員グリー部という狭い世界のなかでコロコロ対象が変わるのだ。コメディとはいえ、話がはちゃめちゃ過ぎて、最初の6話くらいまでは、「歌って踊っているだけ」という印象が拭えなかった。
Glee: Season 1 V.2: Road to Regionals [DVD] [Import]

■ 人格のある音楽

そもそも私はミュージカルが好きであるし、その理由は明白だ。私は端的に言って物語中毒である。そして、単品で提出される音楽に比べ、文脈に埋め込まれた音楽は記憶に残りやすい。だから、私はクラシックそのものは大して聞かないのだが、バレエ音楽チャイコフスキーラヴェルプロコフィエフら)となると目の色を変えてさまざまな指揮者の版を集めているくらいである。


町山さんは、ラジオでGleeの話をした際、メルセデスのオーディションシーンについて言及していた。舞台となるオハイオ州は保守的な白人ばかりで、黒人はマイノリティ。町山さんにとって太った黒人のメルセデスがGlee部のオーディションで歌うのは「当然アネサ・フランクリンのRespectなんですよね!」となる。この“当然”といった感じは、日本に住むものには中々にして伝わり辛い。メルセデスがこの曲を歌うまでには一切セリフはなく、いきなりオーディションシーンで登場となるわけだから、町山さんは、彼女が「メチャクチャ歌がうまい」ことだけではなく、「当然アネサ・フランクリンのRespectなんですよね!」ことにも心動かされた、というのだ。音楽、歌唱だけでなく、彼女の見た目、人種、取り巻く環境、居住地域までもが、歌の評価に影響するのである。


一方で私は日本にいてそんなこと知っちゃいないわけだから、7話「Throwdown」で「お?」と思うまでは、それこそハイ・スクール・ミュージカルやハンナ・モンタナを眺めるような気持ちで流し見をしていた。7話はゲイのカートのカミングアウトに焦点が当てられ、父に自分を良く見せようとアメフトの試合に出て結果を収めるも、最終的に父親にカミングアウトするまでを描く。父親とカートの演技は特筆もので、このあたりから私はドラマを評価しはじめた。しかしこの回はビヨンセのSingle Ladiesが何度も使われているのだが、この段階ではカートはオーディション以来ソロも与えられず、自らの気持ちを歌に乗せるというミュージカルの常套手段を踏んでいない。ビヨンセはただのBGMである。


ところが、9話「Wheels」では、主人公レイチェルとのDiva Off(対決)が行われ、ウィキッドの名曲「Defying Gravity」での対決があり、カートが初めて1曲まるまる歌声を疲労する機会がある。ただし、カートは、女性の曲ゆえ高い音を出そうと音楽室で特訓していたのを男子生徒に見られ、父親のところに「お前の息子はファグ(オカマの侮蔑語)だ」と匿名の電話が入れられてしまう。カートがゲイであることを受け入れてくれた父親ではあったが、この手の中傷となれば話は別だった。カートは傷ついた父親を見て、対決においてわざと音をはずしてその曲を披露する機会から自らを遠ざけ、「父さんの息子であることのほうが、歌のソロを得るより大事だ」と言う。


第18話「Laryngitis」では、カートの父親と、フィンの母親が再婚することによるカートの心の揺れを描く。カートは父親の愛情が、ストレートの男の子であるフィンに向けられていることから、父親の理想の息子でない自分に苦しむカート。そこで、本当の自分を表す曲として、自分はゲイではなくヘテロセクシュアルなのでは?という思いから、いつものハイ・ファッションを捨ててダウンジャケットにジーンズ、キャップ、スニーカーで登場し、男らしくJohn Mellencamp「Pink Houses」を歌う。ところが、父親がフィンとアメフトを見に行くというと嫉妬が爆発し、いつもの過剰にオシャレなカート・ファッションに身を包み、ミュージカル“ジプシー”から「Rose’s Turn」を、“全てはカートのために!”と高らかに歌う。この曲でようやく、通常のミュージカルの文脈である、キャラクターの気持ちを代弁する曲がセットされるわけだ。



通常の映画やミュージカルのタイムスケール(2〜3時間)では、こんな所業は許されない。そこまで長い時間をかけて、キャラクターの背景、立ち位置、そして歌唱力を紹介していくことは不可能だ。だから舞台の上ではキャラクターはある程度戯画化されている。
ところがカートは、(実力的には十分歌う能力を持ちながら)まずはビヨンセをBGMとして登場し、次には「Defying Gravity」ではわざわざ音をはずして自由=本当の自分自身を表すことより父親の名誉を守ることを選ぶ。「Pink Houses」に至っては、父親の理想の息子を演じるためにヘテロセクシュアルの擬態しているだけだ。彼が“全てはカートのために!”と歌うまでの歌は、一切をもって彼そのもののを表してはいないという、矛盾に満ち満ちた助走。その助走を経て彼がついに「Roses’ Turn」を歌う際の破壊力といったら大変なものだ。


カート役のクリス・コーファーは、フィンよりも小さいサイズの役でありながら、エミー賞助演男優賞にノミネートされた。そもそも、クリスは車椅子のアーティー役のオーディションに来ていたが、監督が彼の存在にインスパイアされてわざわざカート役を新たに作ったという経緯がある。そういった裏話さえ、テレビは取り込んで曲への共感につなげてしまう。実際に、エイプリル役のクリスティン・チェノウスなんて舞台での活躍を知らなければただの皺だらけの若作りなオバサンだし、シェルビー役でイディナ・メンゼルが出てきたときの感動も薄れてしまう。そしてシーズン後半からレイチェル(リー・ミシェル)の相手役兼ライバルとして登場するジェシー・St・ジェームズ(ジョナサン・グロフ)の共演に心躍ることもないだろう。また、Gleeに使われる曲の文脈を抑えておくことも視聴の役に立つ。拡張された時間軸の中で、ありとあらゆる情報を味方につけて、ただの歌謡曲が物語に組み込まれていく様は、テレビでしか実現できない。


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■ マイノリティ・ビジネス?

町山さんが言及したとおり、オハイオ州という土地柄はGleeに大きな影響を与えている。パイロット版で創設されたばかりのグリー部が歌うジャーニーの「Don’t Stop Believing」は、グリーを代表する曲となった。この曲を選ぶ過程もオハイオという土地と深い関係がある。アメフト部QBのフィンは、ダサいグリー部を抜けることができ、アメフト部からプレゼントとして「トイレに閉じ込められた車椅子のアーティー」を送られるが、フィンはアーティーを助ける。イジメる側のアメフト部員は「この(車椅子の)負け犬を助けるなんて信じられない」と言うが、フィンは、

「わからないのか?全員負け犬なんだよ。この学校にいる全員、いや、この街にいる全員が、高校を出て、半分しか大学にいかないし、しかもオハイオ州を出て大学に行くやつなんて2人やそこらだ。俺は負け犬と呼ばれることは怖くない。実際そうだし、そのことを受け入れてるからな」。

そして、アメフト部とグリー部を兼任することに決めたフィンは、子供のころ初めて音楽と接した思い出のある「Don’t Stop Believing」を歌う。アメリカ中を行き先も持たずに旅をするホーボーを歌ったこの歌は、オハイオ州にがんじがらめになった子供たちの魂の叫びと呼応する。“ただの小さな町の女の子/孤独な世界に住んでいるけれど/真夜中の行き先もない列車に飛び乗る/ただの都会の男の子/生まれも育ちもサウス・デトロイト/真夜中の行き先もない列車に飛び乗る”……


物語は、黒人、ゲイのみならず、アーティーのような車椅子の障がい者にも焦点を当てる。9話目にあたる“Wheels”では、全員が車椅子に乗って「Proud Mary」をパフォームするのも見所だが、町山さんの言及にもあるダウン症の人々が出てくるのもこの話だ。また“Hairography”の回では、ろう学校のグリー部が登場し、手話でジョン・レノンの「Imagine」を披露し、心動かされたメルセデスが一緒に歌いだすシーンもある。


Gleeの唯一にして最大の悪役といえば、彼女自身が大人気となった、チアリーディング部コーチのスー・シルベスターだ。彼女は顧問ウィルの不手際からグリー部の共同コーチになるチャンスを得て、気に食わない顧問ウィルに復讐し、またチア部のメンバーを取り戻すためにグリー部をつぶそうと画策している。彼女が内部に入り込んでまずやったことは、マイノリティだけで選抜チームを作ること。黒人、ラテン系、アジア系、車椅子のメンバーを集め、「Hate on Me」を歌わせるのだ。この作戦は一時はグリー部内に亀裂をもたらしたが、結局メルセデスが「こんなマイノリティ・ビジネスは好きじゃないわ。たしかに私は強かな黒人女性かも知れない。でも私はもっとそれ以上の何かだわ。私は抜ける」といって計画はご破算となる。もちろん、ナードを集めたドラマ「Glee」も、本質的にはメルセデスが指摘するマイノリティ・ビジネス。そのことを指摘されても痛くないほど、徹底的に真摯であろうとするのがグリーの姿勢なのだ。メルセデスはその後16話「Home」でスーに言われてダイエットしようとするが、栄養失調で失神し、全校生徒の前でクリスティーナ・アギレラ「Beautiful」を歌い、そのままであることの美しさを強く訴えかけるシーンすらある。元来、ミュージカルは汚く醜い者のために、そして少数派の変わり者(変態といっても差し支えないであろう)のためにあった。テレビシリーズだからといって、その法則は破られていないのだ。

■ 私の耳は節穴 ――劇場は何のためにある?

春のめざめ オリジナル・ブロードウェイ・キャスト盤
ところで、Gleeに関して私がもっともショックだったことは、主人公を演じるリー、そしてライバルのジョシュをN.Y.ですでに観劇していたことである。トニー賞で「Spring Awakening」のパフォーマンスを見て、チケットを入手し滞在中見に行った。しかしながら、実際にはあまりこのミュージカルは面白くなく、日本でも劇団四季が『春のめざめ』と題して上演したので見に行ったのだが、日記に書くまでもないほど、ちっとも面白くなかった。


ところが、Gleeに出演している彼らを見ると、ストーリーの機微やミュージカルとしての完成度はさておき、彼ら自身が卓越した歌唱力を持った一流のパフォーマーであることがわかる。彼らが歌う前から、私はジャーニーも、リアーナも、クリス・ブラウンとジョーダン・スパークスも、大好きでよく聞いていたのだが、アレンジの妙がほとんどない曲においても彼らが歌う版のほうが単純に良いと思うことすらままある。彼らがそれほどの表現者でありながら、わたしは劇場という、もっとも私のなかで基礎をなすべき場所において、彼らの真価を発見できなかったのである。


Glee: the Music-Journey to Regionals Ep
このことは私にとって難問であった。というのも、この事実を認めてしまうと、自分がN.Y.やロンドンに足を運んだ旅費も、年に何回も通う劇場へのチケット代も全て無駄になってしまう。私はGleeアメリカのiTunes経由で入手し、主にiPhoneで見ている。あんなに小さい画面が、劇場の価値を上回ってよいのだろうか?


このことについては、こねくり回した結果を、大まかには以下のとおり纏めてみたい。

  1. ミュージカルというストーリーを持った凝縮された音楽ショーと「Glee」は、似ているようで全く違った価値機軸を持っている。ひとつは何ヶ月もかけた物語であること。その中では、「歌わない/歌えない」ということすら成立してしまうという現実。
  2. もうひとつ、ミュージカルの曲は普通その場で初めて聞く。そして劇全体を一まとめの作品として聞く。一方で「Glee」に使われている曲はバラ売りされていたもののつなぎ合わせ。「Glee」は1分〜数ヶ月の時間軸を無限に横断するので、当然舞台に対する評価はそのまま適用できない。
  3. クリエイター=アーティストの構図は最早存在しない。You Tubeでカヴァー曲を披露していた少年がビルボードで1位を取る時代。創造することと演じることの価値に優劣はなく、パフォーマーは立派なアーティストである。


私はアメリカン・アイドルアンドリュー・ロイド・ウェバーをテーマにしたり、ポール・ポッツが「誰も寝てはならぬ」、スーザン・ボイルが「I dreamed a dream」を歌ったり、So You Think You Can Danceでデズモンド・リチャードソンが振り付けしたり、ということは、教育的意義から大いに支持するし、実際「Glee」は新旧のポップ、ロック、ミュージカルの名曲を新しい世代に紹介しているメディアとしても評価されている。“紹介”された人が劇場に行き着くかどうかという問題はさておき、エントリーメディアとしての成功に疑問の余地はない。問題はGleeそのものがどこまで深く潜れるかどうかだ。私の見込みでは、おそらくどんな劇場でも見ることが出来ない新しいミュージカルが出来上がるだろうが、それに伴ってわたしは転向宣言をしなくてはならないのかも知れない。

追悼・佐藤史生、驚異の反逆者、輝ける頭脳をもった詩人

好意的な四流批評家やコラムニストのうちで、ただの一人だって、シーモアの本当の姿を見てくれた者はいなかった。彼は詩人なんだ。本物のの詩人なんだ。たとえ一行も詩を書かないにしても、その気になれば、耳の裏の形一つででも、パッと言いたいことを伝えることのできる男なんだ。
<大工よ、屋根の梁を高く上げよ>


シーモアの詩集がバディの臀部に敷かれたまま長い歳月を過ごしたのに対し、大詩人たる佐藤史生に若いころから触れることができた私はいかに幸運であったか。しかも佐藤史生は詩を書いただけではなく、絵を描き、踊りと歌を描き、SFを書き、人間を描いてくれた。しかし、それでもやっぱり佐藤史生の最高点はその類稀なるセリフのセンス(黒田硫黄なみ!)にあるのであって、反逆者としての彼女を評価したがる似非評論家の私を黙らせるほどの、高い芸術性と示唆に富み、またユーモアとウィットがほとばしっているのだ。


夢みる惑星 (2) (小学館文庫)
私が好きな作品である、『夢見る惑星』は、最初わたしにとってはあまり面白い作品ではなかった。のちのち考えれば当然の話で、あの『ベルサイユのばら』だって、佐藤史生のもう一つの代表作『ワン・ゼロ』だって、その鏡映しである同時代作水樹和佳子イティハーサ』、もしくは反骨精神あふれ、反逆そのものが目的と豪語する佐藤史生『レギオン』だって、最初はやんごとなき身分に生まれ、権力の側についていた人が、反旗を翻して、民衆や悪魔の側につくから面白いわけであって、『夢見る惑星』みたく、王様の私生児が、予期される地殻変動から人びとを救うため、「大神官=権力の権化」になって人を導く話なんて、長引く反抗期に絡めとられた当時の私には、地味で体制っぽく映るだけで全く響かなかった。しかし、イリスのような自己犠牲的キャラクターを描くなるしまゆりに出会ってから、むしろイリスは何よりも運命に逆らおうとした信念の人であったことに、改めて気づいたのである。そして、イリスの懸命な決断は、社会人になって、さまざまな規律に縛られるようになった私に、勇気を与えることともなった。


佐藤史生ジェンダーにおいても様々な功績を残した。ただ、それ以上の問題は、永遠の難問を遺していってしまったことだろう。ここでは、藤本由香里が「私の居場所はどこにあるの?」で触れている『オフィーリア探し』について取り上げてみよう。

精霊王―徳永メイ原案作品集 (小学館文庫)

レズビアンバーに勤める若い女が続けて二人殺され、犯人をたぐっていくと、颯爽とした背の高い女にばけた男だったという筋書きである。しかし、女としては颯爽とした美しい肉体が、男としてはなぜこれほどまでに無残な、できそこないに転ずるのか――「その前に立って悄然と声もなく、ただおのれを恥じるこの感覚は何なのだろう?」ここにはまた、別の問題が口をあけている。[藤本、1998 pp.167-168]


この「颯爽とした背の高い女にばけた男」である肖(あやか)は殺人犯であったのだが、それを暴き立てる礼というFtMのレズビアンバー店長にむかって肖が吐く台詞がこれだ。


「あんたのこと好きだったわよ ある意味じゃファーンより あんたのほうをずっとかわいいと思っていたわ でも…わたしがほしいのは 小さくて愛らしいたおやかなお姫様なんだ わたしを男として 強い男として愛し 慕ってくれる そんな女なんだ 一点の汚れもない 美しい… 天使のような……」[佐藤、1989 pp.212-213]


肖は男性でありながら、男性そのものとしては美しくないために女性を選択する、「男性性に挫折し女性化を余儀なくされている存在」として描かれている。これは萩尾望都『マージナル』のメイヤード似ている。そしてそれゆえに自分の男性性を保障する「少女」を求めている。メイヤードはここで女性を突き放しているのだが……。それはさておき、これは言うまでもなく、乙女ちっく少女漫画が、男の子に「そのままの君が好き」といってもらおうとしたこととも、また、24年組が、少年に仮託して、主体性を花開かせようとしていたこととも、真逆である。そして、真逆であるからこそ説得力をもって一つの真理を暴き出す。24年組は、一貫して、間違った人々、反逆者、醜い人々を取り扱おうとし、そして成功を収めてきたが、如何せん彼女たちの筆が描き出すのは美男美女ばかりであった。『オフィーリア探し』は、この作品以前の少女漫画が、結局何も達成できていないのではないか、という強烈な問いかけだった。


肖の「しかし みかけはできそこないでも わたしはまったく普通の正常な男だったんだ!」という叫びに、事件を調査していた探偵である主人公のモノローグはこのように続く。

そうでなくて本当に倒錯者だったらよかったのだ[佐藤、1989 pp.220]

先に言ってしまえば、この言葉は90、00年代を超え、10年代に入った今でも解決を見ていない。「倒錯者」だったとしても、24年組ほどの聡明さをもってすれば、二律背反の中で引き裂かれるような思いをしなくてはならない(なお、神坂智子『T・E・ロレンス』は、倒錯していることの苦悩を扱った名作である。またここでも、上記問題は全く解決されていない)。「本当に」倒錯するためには、せっかく男性の形を変えて得た、自由に表現する権利、主体性を封印するしかない。


主人公をして「本当に倒錯者だったらよかった」とまで言わしめるものは、「できそこない」の「みかけ」である。


ナルシシズム」と「特権性」が絢爛と花開く場でもあった少年主人公の作品において、「みかけ」の問題は常に棚上げされてきた。70年代の少年について、乙女ちっくという「ブサイクを自称する可愛さ」というカマトトと比較して、より聡明さを、そしてより正直さを要求された2「少年主人公漫画」の中で、存在できるのは、真の自分の姿としての美少年であり、また真の自己否定としての先天的な異端しかない。ワタシは、バカでドジでおっちょこちょいなわけではなかった。ワタシは美しく、ワタシが阻害されるのは、バンパネラだから、ラテン系だから、銀の髪で赤い目だから、黒い肌だから、云々……。


それですら、カマトトよりはずっと賢明だったのに、佐藤史生は、その聡明さと正直さを、読者である私たち、そして作者である彼女自身を傷つけかねないところまで引きずり下ろしたのだ。つまり、「真の自分」との最大の齟齬が、女である自分、そして同性愛者にもなれず、異性装者にもなれない、醜い自分であることを発見したのである。80年代後半、少女漫画はついに、ロレンスやメイヤードや肖といった「トランスジェンダーの醜さ」への可能性にたどり着く。一方で、それと同時に評論による既に少女漫画の「トランスジェンダー」への価値の付与が始まっていた。上野、大塚らがこぞってギムナジウムを語り始めたのは丁度89年である。そこから、表現と評論のどうしようもないまでの乖離が生まれていった。佐藤史生の作品は、フェミニズムにとらわれた評論を許してきた少女漫画に鳴り続ける警鐘であり、揺るぎのない楔である。それは私たちに重大な事実を思い起こさせる。少女漫画は、今でも失敗し続けている――と。


「少年主人公漫画」は作者・読者たる「私の性」が介在しないメディアだった。それは、「私の性」の問題を棚上げしてきたことと同義である。そしてそのファンタジーにおける性越境は常に、「まったく普通の正常」でありたかった私の裏返しである。「倒錯者」にもなれず、「まったく普通の正常」でもない、あいまいな性の醜さ――。もちろん、その後、少女漫画は、そこを乗り越えるために大きな冒険にでることとなった。 佐藤史生はその最初の一人であり、最後の一人であり続けるだろう。

なぜコムギは盲目なのか

好きなことについて書こう、と思う。

HUNTER X HUNTER27 (ジャンプコミックス)


日記を再開させると下手に宣言してから数週間、わたしは多くの機会を得ながら自分に言い訳を続け、けっきょくただの一文字だって書かなかった。私は心の中ではいっぱしの評論家のつもりだったが、3年の歳月が私を平凡で怠惰な社会人に変えていたようだ。ものを読む頻度の減少以上に、評論に対する情熱と義務感はひたすらに薄れていき、見えなくなってしまった。
私が漫画を必要としたのは、幼いころから“自らが正しいこと”を文字通り何よりも大事にする母の元で、つねに間違った立場を強制的に選択させ続けられる環境におかれ、間違った自分を肯定する理屈が必要だったためだ。たとえば、コップの牛乳を母がこぼしても、遠くにいた私が怒られることがあった。私が悪いんです、という事実を、自らの血肉として生きてきた。そして出会ったのが冨樫義弘と萩尾望都だったのであり、私にとって漫画(とミュージカル)は、マイノリティを讃美し、清きを罰し悪しきを尊ぶ、かけがえのない芸術となった。


冨樫義博は、異生物の側に立つ癖がある。
あちら側から来た主人公は、キューピッドや不良やドグラ星の王子としてあらわれた。ゴンはフリークス(怪物)の名前を持って生まれた人間である。
冨樫義博は、同じ設定を何度も違う作品の中で繰り返す。
というわけで、マクバク族的なキメラアントの助けを借りて、魔界編で持ち出したけど作者が消化しないまま雷禅が墓場に持って行ってしまった食人のテーゼを、再びハンター×ハンターの世界で解決しようと目指すこととなった。
しかし、冨樫の中では最初から答えは出ていたのである。「人間より強い種が出現すれば、人間は家畜となる」こと、「人間は蟲よりも汚くて残酷である」ことを示すところからスタートしてしまった本編は、『第9地区』をオチから(ないし、元ネタたる南アフリカアパルトヘイトドキュメンタリーから)見るような危険な作業であり、必然として描写はチープになっていった。ウェルフィンのあっさりとした転向、対話をしないネテロ。だが、蟲の支配から抜け出すパームの格好よすぎる描写などは、女性の格闘キャラを扱うのが上手い冨樫らしさが出ている。


同時に、冨樫はキメラアント編でナレーションを使用せざるを得なくなった。
そうしないと、幾重にも折り重なる心境と戦況を表現することができなくなったのだ。漫画家が作中でこのような転換をすることは、全くないわけではないが(最近の『嘘喰い』などは唐突に剥製の鷲がモノローグを入れだすなどぶっ飛んでいる)、ある意味で、冨樫が紙面で操りきれるキャパシティを突破したところに、我々はいるのである。そして、このわかりやすさは、同様に安っぽいものとして読者には受け取られた。


しかし、本当にそれは安っぽいものなのであろうか。
私は認識に対して、いつも強い疑いを持っている。
たとえば、映画など2〜3回みないと訳がわからないものだと了承して見ている。


私が「認識劇」と呼ぶいくつかの作品群がある。
もちろん、萩尾望都はその代表的な作家である。「認識劇」のはしりはあの怪作『トーマの心臓』でユーリがトーマに対して見つけた解釈であり、それによってトーマの行動は180°違ったものとして見えるようになった。その妙は奇作『訪問者』でも受け継がれ、そこではオスカーに愛する父が語った神様の話が、最後には180°違う解釈にて提示され、読者を震撼させる。父は視力を失いかけていた。そのほか、枚挙に暇はないが、私の愛する『マージナル』のメイヤードも視力が弱い遺伝性の因子を抱えており、彼にとって、死にかけた不毛の惑星は、生きるために女性化する自分の鏡うつしであることが暴露されたのである。
もっとわかりやすいのは京極夏彦である。ミステリ作家なのに、現場に死体を置き、「ないと思い込んでいたから/見たくなかったから、その死体は見えなかった」というトリックで1作目を書き上げた作家は、その後も何度も脳味噌が創り出す不可思議な認識を妖しき怪として取り上げてきた。


それに比べて、少年ジャンプはひたすらにまやかしの世界であった。それは「認識=わかること」とは正反対の、「わからないこと」という眼帯である。ルフィの唐突な言動の裏にあるものは読者の想像に任され、サスケの兄イタチが使う瞳術のすごさは決して読者には伝わらず、藍染がいつ卍解したのかを解らないまま隊長たちが散っていった。そこでは、認識の転換トリックはただのハッタリであり、ギミックでしかなかった。
一方で、キメラアントが登場してから、武力も、知力も、戦場も、モラルの戦いも、ある種の限界を突破してしまったハンター×ハンターでは、目の見えない、「わからない」コムギを唯一の非力な人間として置くことで、かろうじて読者の「認識=わかること」を支えることに成功したのであった。つまり、彼女にとっては自分を庇護してくれるのは蟻、自分を人質にとるのが人間であり、そこに180°の転換がある。コムギは、冨樫が最初からネタばらししてしまった蟻のモラルを支持する支柱であり、彼女を救済できない人間軍には蟻ほどの価値もないのである。


ひとつだけいえるのは、この物語は着地地点も相当に不自然なものとなるだろう、ということ。
それでも私は冨樫義博を読み続けるだろう。好きだからね。

大学生に送るサリンジャー精読その1.『フラニー』と『ゾーイー』を批評する

lepantoh2009-11-08

そうか、この日記には[批評]も[評論]もタグとして存在しないんだな。うーん、学生時代の私って謙虚(HxH風に)。さて、この日記も死に掛けていたけれど、最近英語の副産物で少しばかり評論をしているので、ここに書いてみようと思う。たぶん、多くの学生が私より熱心で頭がいいと思うけれど、それでも私は、学生時代からそう望んでいたとおり、この日記が他の学生のインスピレーションの元になってくれればいいと願うよ。学生諸君、君がフラニーにボコボコにされながらもなおアイビーリーグの英文学生を気取るというのなら、私はあなたを全力で応援したい。しかしまあ、「英文学生」の意味するところの日米間の差異には眩暈がしますな、フラニーに挑みかかる程のあなたならわかってくれるだろう、この意味が? スノッブを気取ったくだらないリトマス試験紙的な人間になるのはさらさら御免だが、授業中にCanCamを広げるハイトーンな声を出した彼女たちと同じ所まで堕ちることは到底できない、板ばさみの人生じゃあないか。中世英語なんて読めもしないのにシェイクスピアで卒論を書いて社会に定住する人なんてゴマンといる――それも訳書ではなく映画だけを見て。そんなに要領良く生きられたら素敵だが、それでも何かを捜し求めて、自らがグラース家の人々のように才能にあふれるわけではなく、情熱が結局実を結ばないとわかる程には聡い、惨めなノン・ネイティブにとって、『フラニーとゾーイ』は、奇書であり鬼門であろうな。それを恐れてか、申し訳ないけど、私は人文の卒で、英文学科はいくつかの授業しか聴講しなかったんだ。しかしまあ、サリンジャーは大学の中でも唯一真面目に勉強した作家であった。アメリカとの接点なんて、彼ぐらいのものだったな、今考えれば。


さて、今回の底本はこちらの本。なかなかどうして良い本だよ、高いけど。図書館で探してみよう。

A Reader's Guide to J. D. Salinger

A Reader's Guide to J. D. Salinger

たった2年半前まで大学にいた私にとっても、現在の学生事情をまったく理解できないであろうと思わせるのが、Google Booksの存在だ。批評には比較対照とする先行研究が少なくとも数冊必要だが(それがないものを俗に感想文という)、Google Booksの登場によって、特に英米文学においての先行研究は圧倒的に入手しやすくなった。私は図書館に行ったけれど、残念ながらF+Z関連の洋書はごくわずかしか見つけられなかった。ちなみにこのReader's Guideは1つの作品について20以上のソースからどのような評価が下されていたのか記載してある。大抵1〜2行の短い引用であり、そこから引くのは「孫引き」になってしまうので憚られるけど、ソースがないので仕様がない場合は潔く引用しよう。しかしまあ、Google Booksを使えば引用の引用くらいまで辿り着けたりしそうだなあ。


さて本題。『フラニー』は読んでそのまま、レーンとかいういけ好かない英文学生が鼻につくことを散々言ってきた挙句、精神的に不安定になって最後にはぶっ倒れてしまうほどのフラニーにそんなことよりとっととセックスしようと持ちかける話だ。フラニーが持つ『巡礼の道』という本の内容に関しても、『ゾーイー』の最後まで解決しないので、ここは思い切って『ゾーイー』に焦点を絞りたいと思う。ちなみに、わたしはおそらくこれを「ズーイー」ないし「ズーイ」と発音するであろうけれど、まあ、この文体からわかるとおり、とにかく私は野崎リスペクトなのだ。
さて、『ゾーイー』については、底本の結論部にこのようにある;

While a lot has been written about "Zooey", most cf this commentary has been imbedded in articles or book chapters about all of Salinger's work about Glass Family series. In short, there has been very few studies of "Zooey" as a self-contained work of art and even fewer studies that consider the novella's unusual structure and narrative technique. As far as themes are concerned, there have been too few explorations of what "Zooey" says about the nature of art and the role of the artist in society, even fewer studies of the family dynamics in the novella, and none of the mother-daughter relationship in "Zooey".

つまり、最初にあればあるほど、レーン・クーテルの試験管的無害な論文に近づくことができ、最後にあるものはフリーク気分を味わえる、というわけ。最後から行こう。フラニーと母の珍しい関係性については、ナイン・ストーリーズのブーブーを引いたり、またサリンジャー作品における父親の不在をモチーフに、シーモアの死と絡めて語ってみるのも面白いかもしれない。お尻から二番目に書いてあるのは家族のダイナミズムだが、これは非常に重要である。注目すべき点は3つ。1つは小説の構成で、これは1対1の会話が3パターン繰り返されるのみの大変珍しい構成となっている。しかも、それぞれの場において、話し手は、聞き手が止めてくれと懇願することを行い続ける、大変にフラストレーションの溜まる展開となっていることも珍しい。もう1つは彼らの雄弁さである。雄弁さこそが彼らを語るキーであり、それはおよそ彼らの嫌世的態度と馴染むものではない。最後は彼らのコミュニケーションの方法である。シャワーカーテン越し、鏡越し、そして目を合わせない対面式、最後は他人の名を騙った電話。これらが一体となって、このfamily dynamicsを生み出していると考えてよいだろう。続くのは芸術家の社会における位置とのことだが、これは最後にゾーイーがフラニーに「神の女優になれ」との助言を行ったこと、そして彼らが2人とも演技者であることから着想を得ており、実際そのような評論が成されていないこともない、多くはないが。サリンジャーが映画に対して抱く嫌悪感や、バディの小説家としてのあり方などと比較すると面白いだろう。ナレーションおよび普通ではない構成については、バディと3者視点の2つが入り混じることからきている。これはバディがシーモアについて語る「大工よ、梁を高く上げよ」と共に研究することが必須となろう。もちろん序文に書いてあるとおり、グラース家との比較によって『ゾーイー』の本当の魅力が薄れてしまうと考えているのならば、むしろその他の作品を切り取ってしまうのも一つの勇気だ。わたしもそれに挑戦したのだが、なかなかにして難しかった。個人的には、上記の雄弁さ、そしてフラストレーション、コミュニケーションに加え、ナルシシズムとフリーク性での綱引きというのが、『ゾーイー』の魅力だと思うのだが、その点では『ライ麦畑でつかまえて』を思い起こさせるところがあり、結局は2作品の比較となってしまったという、私自身苦い過去を持つものであるのだが……。


さて、『ゾーイー』においてもっとも問題とされるのは、最後の「太っちょのオバサマ(The Fat Lady)」の解釈であるが、これについては、別途また筆を改めたいとの思いにて、本日はここまでにて失礼したく思うのだ。


ところで、折角なので心機一転、日記のサブタイトルも「五月の庭」から「It's Nothing, Don't Mention That」に改めた。この2つは「そんなこと何でもないさ、わたしには勿体無いお言葉さ」という、つまりは「どういたしまして」を表すものなのだけれど、どうも最近日本語で間違えて使ってしまう。「なんでもないです、いわないで」という意味が、日英米間で非常にかけ離れているのが、少し面白かったのでタイトルにしてみた。相変わらず大して更新はできませんので、よろしければついったーにどうぞ。(岩瀬)

グレッグ・イーガン『TAP』

TAP (奇想コレクション)

TAP (奇想コレクション)


ある種の課題図書として読み進めていた、イーガン久々の翻訳書『TAP』表題作「TAP」が、すこぶる奇妙だった。
そもそもこの本は、「奇想コレクション」として出版されたのが頷けるような、不思議系の作品ばかり収録されているのであるが、イーガンのファン層が、ブラッドベリ的「センス・オブ・ワンダー」に支えられたファンタジックSF(とか、断言していいんだろうか)を支持する人々と真っ向から対峙する、「ゴリッゴリのハードSFファン」によって成り立っているということを考えると、本書は大いに批判を浴びている気もする。私もインターネットで『TAP』の感想を数十は読んだが、絶賛しているものはもちろんなく、「こんな感じなのかなぁ」、と数行でお茶を濁すものが多かった。
訳者の山岸氏も、そのあたりの隔絶には留意しているようで、巻末には大槻ケンジのトンデモな勘違い―「貸金庫」を読んでハードSFではないことに怒ってイーガンを断念した―を引いてまで、読者にSFの読み方の差異を教授しようとする。その丁寧さには頭が下がるが、とりわけ日本で圧倒的な人気を誇り、作者HPで無料で公開されている数編をなおも翻訳されることを待ち望んでいる「ニホンのイーガンファン」に向けては、ある程度の説明が必要だったのも事実だろう。なお、念のため言い添えておくと、ハードSFというのはストーリーが科学的/化学的/数学的/または、その他ありとあらゆる論理と数字に準拠していると看做されるストーリーのことを言うそうである。というか、この文章ではそういうことにしておいてください。


しかしながら、私は、問題は表題作「TAP」が「ハードSF」でなかったことではなく、「ハードSF」になろうとしなかったこと、「ハードSF」を敢えて目指さなかったことが気にかかって仕方ないのである。


「TAP」は、ミズ・オコナーという1児を持つ母であり私設探偵が、TAPという言語チップを脳に埋め込み、最高のTAP詩人と謳われながら死亡した老女の死因を探ろうとする物語である。
詩人の娘は、彼女の母を死に至らしめた心筋梗塞は、〈死の言葉*1〉によってもたらされたに違いない、と主張する。「TAP」使用者は、1語にて、周りの情景を描写し、「スキャン」または「プレイ」したこれまたTAP使用者の五感を呼び起こすことができる。その機能を使えば、決して「プレイ」してはいけない単語を作り上げ、そのことを考え続けることで脳内物質を異常分泌させることができるのではないか、という推測だ。


つまるところ、ここまでは完全なる、愛すべきゴリゴリのハード・サイエンス・フィクションなのである。


しかし、結局詩人は〈死の言葉〉によって死亡したのではなかった。彼女は初期規格品にあるアップデート用プログラムのクラックを突かれただけであり、こんなチャチな仕掛けでは、到底「ハードSF」になるには及ばないのである。その発見に至るまで、主人公ミズ・オコナーは容疑者の小学校教師に会うためPTA会議に潜入し、町中の電話に盗聴器を仕掛け、泥臭い探偵仕事を見せ付けてくれるが、これが大して面白くない。〈言葉〉が人を殺す、というアイディアが持つインパクトに比べて、圧倒的に見劣りのするプロセス、そしてそこから導き出された退屈な真実は、この物語が科学や技術ではなく、むしろ“信仰”や“信念”に関する物語であることを見抜かなければ、評価するのは大変に難しいであろう。


TAPの帯にはこのように書いてある。

密室の老詩人は〈死の言葉〉に殺された!?
殺人事件の究明を以来された私立探偵が、捜査の果てに知る事実とは……

変わりゆく世界、ほろ苦い新現実――


この帯に提示されるとおり、彼女は死の言葉によって殺されたのではなく、変わりゆく世界とほろ苦い新現実から、少しでも長い間人類を守るために殺された、というのが作品のオチとなっている。
老詩人の死は、TAP頭(TAPをインストールした、TAP盲信者たち)によって起こされた、生後3ヶ月になったわが子にTAPをインストールする権利を与えるよう求める訴訟に対抗するために故意に起こされた殺人事件だった。そしてそれを起こした男性に連れられ、ミズ・オコナーは見たくなかった新現実に対面することを余儀なくされる――TAP開発者のひとりが、自らの娘に施したTAPインプラントの結果。8歳そこいらの少女があまりにも聡明な口調で語る、彼女自身とTAPのこと。もちろん、賢くあること、多くを知っていることそれ自体は悪いことではない。しかし少女はミズ・オコナーに告げる。「なぜなら、この人たちの病をあらわす単語も見つかったから。私は、権力愛を表す単語を見つけたから」。彼女は何が彼女をTAP頭にしたかを理解している――TAPを信じない頭で。TAPは信仰であり、TAPを植えつけることは洗礼であるが、少女はTAPとともに生きる以外の道がないにも関わらず、TAPを全肯定しているわけではない。しかし、人類はこれから、TAPと共に鬱屈して生きるか、TAPなしで盲目的に生きるかを決めなくてはならないのだ。その選択がミズ・オコナーに手渡されたところで、本編は終わる。

グレッグ・イーガン『TAP』は、とても退屈なプロセスを経て、ようやく第一歩にたどり着く怪作であった。なお、カウチに座って読了することをお勧めする。

*1:デス・ワード

学校英語を馬鹿にしてはいけないと思う。―「英語ってどうやったら上達するのかねえ」への反論

なんだかとってもブックマークを集めている英語ってどうやったら上達するのかねぇとその英語版How to read English?に関して。


ダメだもう我慢できない。


なんだかはてなの皆さんが『そうだ英語を勉強しよう!』という気になっているのはとてもとても素晴らしいことですし、言葉の固まりを覚えるというのは確かに重要なのですが(However, wasn't that a bit too easy for you guys?? Besides, I would say "Is this seat taken?" because you can't answer "No it's not free". People say "No, it's taken" as you all may know. Don't ask me why - it sounds politer.)だからといって間違った英文をそのままにしておいてもいけません。どちらにしろ、そんな皆様の助けになるべく、こんなことを言うのは心苦しいですが、いくつか気になった点があるので指摘してみます。下にも書いているけど純日本人、英語圏滞在足して1ヶ月未満、留学経験2週間なのであんまり気にしないほうがいいかも。


以下、How to read English?に関しての文法的に気になる点。

  • for exampleは、例えば、という意味なので、from my face book. For example, またはfrom my facebook as an exampleとするべきかと思います。
  • by hard-boiled way→in a hard-boiled wayの誤用と思われます。
  • If I was her, what's happen?→おそらく、what has happened?

ここからは日本人風例文なので、わざとだったらスミマセン

  • threw egg→threw an egg
  • brought me REAL Japanese food restaurant!→brought me to a real Japanese food restaurant
  • Let me know what going on→Let me know what is going on

ここまで日本人風例文。ここからはもどる。

  • in my entry past→in my previous entry
  • I know good proverb→I know a good proverb or I know the proverb
  • information about start-up companies→infomation to start up a company
  • you have succeed→you have succeeded
  • you will suffer unsure scribes→you will suffer from??
  • you get good chance→you get a good chance
  • This kind suffering →This kind of suffering 親切な苦しみになってしまう
  • how stupid question it is→how stupid the question was,またはwhat a stupid question it was めちゃイケ的間違い。What a cool we are!


その他よくわからなかったところ

  • This is notorious Japanese English, is easier than hers by our standards, I think.

私だったらis, by our standards, easier to understand than hersという。

  • I wrote about "lexical bundles" in my entry past. shunsuk, you haven't had touching real English. You also don't have touching "lexical bundles."

have touchingの用法がよくわかりません。You haven't touchedではいけないのでしょうか。

  • for your direction?
  • must make you rich English user? richというのはお金持ちという意味でしょうか?冠詞ドロップ。

どうでしょう?Do you still think our High-school English is totally in vain?

I am sorry, but this is my honest impression. If I feel sorry, that's because I'm not the one who should teach or advise ANYONE. より賢明な読者の皆様、もしくは恵まれた英語ネイティブのみなさまに、後はお譲りいたします。You can rebut me anytime, let's discuss!

こんかいの教訓、うん、はてブってよくこういうことあるよね!


早速トラックバックいただきました。たぶんこの執筆者さんはものすごくいい人。だけど情熱の方向がわたしと逆に向いているのだと思います。いや、あの、こちらこそ何かスミマセン。
わたしも一時は、ネイティブみたいになりたい!と思っていたかもしれません。今の教師(トロント大出身のインテリ)に出会って、毎週ライティングをボランティアで見てもらうようになってから、わたしのアカデミックライティング志向が拡大しているのは事実です。スタンスの違いはあるかと思いますが、英語をみんなに話してもらいたいという気持ちは同じだと思いますので、結託していかなくてはならないのもわかっています。
それでも、私は仮定法のhaveを略したりしませんし(何があったの?という意味ではなく、一体どうなるであろう?という意味なので、口語で言う意味がない)、"entry past"はgoogleすればどれだけ稀な用法か、わかるかと思います。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rls=GGGL%2CGGGL%3A2006-22%2CGGGL%3Aja&q=%22entry+past%22&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&aq=f&oq=
過去分詞形(or現在進行形)を形容詞的に使用するのはもちろん基礎ですが、この場合はせめて、past entryと言いたいところです(というか、直前のエントリなので、やっぱりpreviousです)。
その他、件のインテリゲンチャがいないので、なんともいえないのですが、なぜそこまで口語表現にこだわるのか、学校英語を否定するのかが疑問です。私も、アジア、ヨーロッパ、アメリカと、いろいろと知り合いがいますが、一生キャンパスライフを送るならまだしも、特にビジネスの場ではまったくもって失礼ですし、それに非英語圏の人には変なブロークンよりも教科書英語の方が伝わりやすいと思います。つい一昨日も20人ほど東南アジア人を相手して、しみじみそれを実感しました。

やった・やらない全部載せ!TOEICリスニング満点までの道〜あるいは外人から帰国子女と間違われる方法〜

lepantoh2009-08-10


■ついにやったぜTOEICリスニング満点からみえる風景とは

少し前のことになりますが、ついにTOEICリスニングで満点を取ることができました(リーディングは440点ですが)。私がこの日記を始めたころは英語なんてちっとも出来なくて、単位を落としたり、何が書いてあるのか、何を言っているのかさっぱりわからなくて泣けてきたりしたものです。
しかし最近は、ほぼ確実に初対面の人に帰国子女と間違われます。日本人ではなくて外国人にも「You must have lived overseas.」と言われます。入国管理官、六本木のお兄ちゃん、英語の教師、誰もが大抵そう言います。日本人には「帰国子女ですか?」と言われるので、「いえ、日本で勉強しました」といって、しばらくすると、また日本人が、「本当に海外に住んだことないんですか?」と聞きにくるくらいのレベルです。はははーすごいだろー。え、音源UPしろって? 絶対文句言われるからやだ(笑)!


TOEIC935点の私がどのような状態かと言いますと、

  • リーディング、英字新聞、英字雑誌はわからない単語がちらほら。
    • なぜならボキャブ弱し。
    • 読むのも遅い。
  • ライティングがけっこう壊滅的。
      • しかし意味がわからないことや、意味が通じないことはほぼない。
      • 仕事でのコミュニケーションに使用できるレベル。
      • 印刷物やウェブにはリライト必要。
  • スピーキング結構得意。とくに意識せずペラペラ話せる。
  • リスニング超得意。「意味のわからない単語」はあっても「聞き取れない単語」はない。スペルも類推できる。
    • 英語で会議、討論できる。プレゼンや質問を同時通訳できる。
    • 英語で電話できる。

という感じです。そこで今日は、リスニングを中心に、今日は、私が辿った英語学習道やった・やらないを大公開いたします!!
さらに最後にはTOEICのTIPSと英語学習法を大公開!!

Podcast

というわけで、最初に言いたかったことはコレ。Podcast。流行ってますよねー。
はい、一切やってません。なぜなら普段からPodcastを聞く習慣がないからです。Podcastが好きでたまらない人か、興味のある人がPodcastしてくれている場合だけ使えばいいと思います。
オバマチャンネルとか購読したけど、聞きませんでした。ただし、次の項目で使ったよー。

■Smart.fm

限られた一時期、やってました。http://smart.fm/users/lepantoh
非常に良いと思いますが、時間がなく年末年始しか出来ませんでした。iPhoneアプリでも購入すれば違うかもしれませんが。
Smart.fmは様々な事項に沿って(普通の単語帳系書籍から新作映画・ミュージックビデオ・FF7マテリアの名前なんてのも)単語リストを学習するというもので、間違えると何度も覚えるまで繰り返されます。この方法で本当にボキャブはつきます。ほぼ100%覚えます。使わないと忘れるけど。学習した単語をPodcast化して文面とともに持出すことができます。Loved it!
しかしTOEICは680点レベルまでしかないので、GMATコースなどを使って学習していました。GMATの例文は超難しく、リスニングレベルA。

■Ted.com

My teacher's recommend!
http://www.ted.com/
実は私はやっていませんが。世界中の注目すべき人のスピーチを集めました!

iPhone

むしろ、英語を使って楽しむツールとして購入しました。iPhoneは英語がわかるともっと楽しいよ!
iPhoneと英語を使ってやっていること。

自転車選手が多数登録していたので。フォローしている人の半分は外国人。http://twitter.com/tsubono

  • Southpark Mobile

モバイルからしかアクセスできません(PC版はこちらhttp://www.southparkstudios.com/)。内容が過激であるためにAppストアからはじき出されても、トレイとマットはサウスパークを無料配信し続けてくれています。アメリカの切り絵風大人向けアニメ。超早口。リスニングレベルB+。

無料App。中身はこのレベルだと買っても意味ないので、英語の授業でわからなかったものを入れてる。

  • Hungman(ゲーム、多数あり)

ネイティブ向けの単語類推ゲーム。ゲームでたのしく単語学習。気分は嘘喰い

英会話学校

すごく行きました。趣味みたいなものです。とってもお金を使いました。反省はしていない。

  • 大学の講座

4万円で受けられる4人少クラス制の英語クラス×3期。これで圧倒的にレベルがあがりました。735→860点ほどになったと思われます。

  • シェーン

後述の通り短期留学先が英国であったため半年ほど行っていましたがまわりがオバサマばっかりで退学。

プレゼン形式でテキストなしの格安英会話学校に1年半ほど。月1万円でした。

■留学

2週間だけロンドンに留学したことがありますが、その時は全然英語を話せませんでした。
しかし、「本場の人はこうやって話しているんだ」というイメージがつかめたのも、「外国楽しい!もっと英語を勉強したい」と思えるようになったのはこれがきっかけでした。生まれて初めてクラブに行きました。
ホストファミリーと泣くほど喧嘩したのもいい思い出です。

■単語本

この子一筋です。しかも半分くらいしかやっていないでTOEIC890点出したら2chでネタ扱いされました。単語力なんて飾りです。

DUO 3.0

DUO 3.0

■文法やりなおし本

猛烈にオススメ。

TOEIC文法 急所総攻撃

TOEIC文法 急所総攻撃

TOEIC文法 鉄則大攻略

TOEIC文法 鉄則大攻略

TOEIC

ベタですね。

TOEIC Test 「正解」が見える【増補改訂第2版】

TOEIC Test 「正解」が見える【増補改訂第2版】

TOEICテスト新公式問題集〈Vol.3〉

TOEICテスト新公式問題集〈Vol.3〉

TOEICリスニング本

古いかもしれない。+自分の点数に合わせたもの。

TOEICテスト まるごとリスニング CD付

TOEICテスト まるごとリスニング CD付

■DVD

TOEIC800点を達成してからの私のもっともベースとなる学習法かと思います。
フレンズ ザ・ファイナル 前半セット (1~9話・3枚組) [DVD]フレンズ ザ・ファイナル 後半セット (10~18話・3枚組) [DVD]
とりあえず、好きな映画、ドラマを英語スクリプトで繰り返し繰り返し見る。
スピーキング力はこういうところで得た短文のストックにいかに簡単な単語を当てはめていくかで90%決まると思います。

■Musicals

わたしからミュージカルを取ったら何も残らない! 普通の会話や手紙、詩が音楽になっているので、記憶定着率100%!
Wickedレント デラックス・コレクターズ・エディション [DVD]オペラ座の怪人 通常版 [DVD]春のめざめ オリジナル・ブロードウェイ・キャスト盤Billy Elliot the Musical



















■洋書・英字新聞・英字雑誌

ほとんど読んでいません。読むの苦手なんだってば。
好きじゃないことは続かない。

■最後に、学習法とTips

TOEICリスニングセクション満点Tipsとしては、良く言われるように、先読みをしています。

  • Section前の説明文で3-4の回答を先に読む。内容は絶対に覚えておけないのだが、良く曜日や時間系の設問を見逃してしまうので、「ここにその設問がある!」というのを把握しておく。
  • 3が始まったら3の文章を読んでいる途中で大抵回答が終わってしまうので、次の設問は常に先読みしている状態になる。意識しないでもそうなってしまうレベル。

学習哲学については英語が話せる・書ける・読めるようになるための3つの能力半年で英語が話せるようになった私の勉強法(ついでにTOEIC Aランクも実現)を参照してください。Have fun & Good luck!