目次

ネタバレを予告なく多分に含みますのでご了承ください

拙稿序の序 萩尾望都作品における救済者の性格も一部参考になるかもしれません

今年ネットを騒がせた二つの事件。長崎の12歳の少年は、「男は女になれると。あっこ(注・あそこ)なくなったら、女になれると言われて、ボクも同じことされそうになったもん。」と言った。ゴスロリ少女は、「生まれ変わったら何に成りたい?その理由は?」という質問に「男に成りたい 外性器が欲しい」と答えた。12歳少年は、母親をあの女と呼んだ。ゴスロリ少女は、「父母の事が好きですか?何かしたのなら父母のした事を許せますか?」「もう大嫌いです 許しません」「父に一言申す!」「うるさい(声が)」「母に一言申す!」「うざい(触るな)」と答えた。だからどうした?異性化志向と親への嫌悪。ただそれだけのことなのだが。

私は少女漫画論を書きながら、これは少女漫画論ではないな、と思っている。そういったものは藤本由香里さんが書いているので、そちらを参照されたい。私は少女漫画のメインストリーム、つまり、「キャンディ・キャンディ」から「ときめきトゥナイト」「ふしぎ遊戯」「ママレード・ボーイ」「天使なんかじゃない」「花より男子」「NANA」について考察したことは全くない。少女漫画のメインストリームに関してはまったく無視を決め込んでいる。それでは、少女漫画というサブカルの中のサブカルについて書いているのかと言われればそうではない。岡崎京子とその一派に触れることも殆どないし、花とゆめ掲載作について云々いうこともあまりない(ぼくの地球を守って天使禁猟区は面白いと思うが)。かといえども24年組の研究をしているわけでもない。私が読んでいる漫画とは、少女漫画ではなく、非少女漫画である。非・少女漫画ではなく、非少女・漫画。うまいこと少女になりきれない少女のための物語、そういった流れを半ば強引に見つけ出し、それについて書いているだけのような気がする。だから、この文章もおそらくそういったものになるだろう。しかし、私からしてみれば、そういった流れは確実に存在するのである。

1、萩尾望都

そもそも少年は、私が知る限り少女のメタファーとして登場した。勃起する性器を持たない少年は、内面は少女であった。少年を使うことのメリットは、ご本人が「ある程度年齢を経ると、世の中の男女の役割分担を心理の中にインプットされてしまって、そこからどうしても自由になれなくなる。特にわたしたちの世代はそうです。それが、男の子だけの話を描いてみると、その制約を全く受けない。」と語っている。つまり少年主人公は、藤本由香里がその著書で指摘したような、「成長回避としての男装」と同じような機能を果たすためであったように思われる。血が流れること、犯されること、破られること、孕むこと、性にまつわるあらゆる受動的な要素の回避。その為に「少年」たちは登場した。
とりわけ孕むことの回避は重要である。山岸凉子日出処の天子」、萩尾望都トーマの心臓」、竹宮惠子風と木の詩」の主要な同性愛者の少年は、必ず母親の愛情を失っている*1。彼らは心に傷を負った、言うなればアダルトチルドレンであり、そこには明らかに作者たちの「母性」への嫌悪と回避と逃走が見て取れるのである。*2
24年組の中で性に最も積極的であったのは竹宮惠子であろう。彼女の作品に関しては、勃起する性器を持たない〜というくだりは通用しない。彼女の性への挑戦には驚かされるものがあるが、それについては後々語るとする。

*1:母に疎まれた厩戸とジルベール、祖母に疎まれたユーリ、母を亡くしたエーリクとオスカーとセルジュ

*2:その後萩尾は「訪問者」「イグアナの娘」を始めとする多くの作品で、また山岸は「天人唐草」等でAC問題を主題に突き詰めていくことになる。大島弓子の「ダイエット」はAC問題の解決策を提示している。

2、吉田秋生

吉田秋生は作品の中に大島弓子を引用したり、竹宮恵子萩尾望都を盗用!?したり、とにかく彼女の根底には、24年組が流れていることは間違いない。しかしながら、彼女はその無性的・脱少女漫画的な絵柄と話の設定において、24年組から大きく一歩を踏み出した。何より特筆すべきは、性器を持った少年の登場であろう。『カリフォルニア物語』『河よりも長くゆるやかに』の主人公ヒースと能代季邦(としくに)は明らかに内面も少年である。そして生々しい少女の感情と、少女の受ける性的な目線を描きだした『吉祥天女』『櫻の園』においては、性器を持った少女までも描いた。そしてその少女達の描き方はある種のフェミニスティックな部分を持ち合わせており、女性の身体に対する他者からの眼線を批判的に描き出していた。
ところが彼女の作品の主人公は、だんだんと24年組的なものに回帰してゆく。まず最初のキーパーソンは『カリフォルニア物語(’78)』のイーヴだ。彼はスゥエナに好意を抱きつつ、ヒースのことも好いているバイセクシャル的な存在として描かれている。しかし主人公ヒースは男同士で愛し合うことを最後まで頑なに否定する。そしてイーヴは死ぬ。次は『ジュリエットの海(’82)』の透だ。彼は病気でどんどんとやせ細っていくのだが、その外見は中性的で美しい。だが、彼は「早く大人になりたい」とこぼす。これは萩尾望都少年にはあまり見られない兆候である(⇔雪の子、成長回避としての男装、似て非なるもの、ポーの一族)。彼はやたらアッシュに似ているが、内面はまだ少年である。次のキーパーソンは吉祥天女(’83)の涼である。彼は不良少年として、クラスのスケバンっぽい子とつきあっており、性器を持っているように思われる。しかし、彼は叶小夜子のお色気攻撃が効かない唯一の人物であり、内面はストイックで、あまり女性に興味を抱けない人物というように書かれている。その最終到達地点がアッシュ・リンクスである。
アッシュ・リンクスは犯される。「ボス」の肩書きが女性を寄せ付けないというのはいかにも言い訳くさい。アッシュは性の被害者であり、イーヴ、叶小夜子の流れを継ぐものである。ところが身体的には、小夜子の反対にいる涼の後継者でもある。つまるところ、彼は吉田秋生の性実験の結果のキメラ、性器を持った少女である*1。ただしその性器とは、勃起するものではなく犯されるものである(この辺が最高にややこしい!)これはつまり、イーヴ、小夜子、そしてアッシュ、ジェルミと受け継がれる強姦される性的身体の系譜の存在を示している。これを「(勃起する)性器を持った身体」と同一視するわけにはいかないので、仮にここで(便宜上!)「受動性器をもった身体」と名づけることにしよう。まぁ、その後の吉田秋生については私はここで何度か言及しているが、上手く語ることが出来なさそうなのでほっておく。バナナフィッシュについてはこちらを参照されたい。

*1:ある意味両性的。そしてその周りにいる英二やら月龍やらも両性的、おまけにシンという無性的キャラクターもおり、英二―月龍、アッシュ―月龍―シン、ショーター―シンがそれぞれダブル(分身)として設定されているのでややこしい。

3、萩尾望都と吉田秋生

ここで注目したいのは、それが萩尾望都と根底で通じているということである。例えばユリスモールがサイフリートにうけた折檻や、エドガーが大老に受けた儀式とといった、ある種の美化が施された虐待の構図を、吉田秋生は(彼女の特性である)性というファクターを前面に押し出しながら再構成している、そして受動性器をもったキャラクターが、次第に前面に押し出されるようになっているのである。
また、萩尾望都が描いた異端児の系譜は、よりリアルかつ自然な形で吉田作品に受け継がれている。バンパネラ、ユダ、火星人、シャム双生児といった表彰は、社会の中での性の被害者といった姿に変わった。その人物達が概して美しいことは萩尾望都と共通しているが、萩尾望都は生まれつきの異端児の美化と昇華のために、その美しさを用いたが、吉田の場合美しさがあだとなり、異端に貶められる。

さらに、宮迫千鶴の表現を借りて、「少女」(認識行為と主体性を封印した眠る人形)「非少女」(認識行為と主体性を持った、なぜと問い続ける少女)について考えると面白いものがみえてくる。*1
まず、萩尾望都の描いた非少女は、極度に昇華され、少女世界への回帰と少女からの脱出を同時に望む存在である(代表例:エドガー、ユージー)。そして萩尾望都作品の中で、「白痴」は少女のメタファーであり、少女的なもの、白痴であるものは悉く殺される。それは非少女が憧れる少女の美しい部分のみをもった無垢な存在である。トーマ、メリーベル、アラン、ユーシー、ル・パントー、トリル。*2
それを前提に、吉田秋生の作品を覗いてみると、いくつかの興味深い点に気づく。まず、『カリフォルニア物語』では、非少女ヒースと少女テリーと、兄弟の中での対比があり、父マイケルによってヒースは兄と比較されている。ところが兄テリーが、自分の意見をハッキリと言うことが出来る非少女ヒースに対して憧れと嫉妬の念を抱いていたことが明かされる。この「少女」からの視線は、萩尾望都にはない。さらに言えば、叶小夜子なども非少女の部類に入ることは間違いないが、彼女も「何も知らず少女のよう」な母親を見て、「女としてどっちが幸福なのだろう」と自らに問いかける。萩尾望都のような昇華は行われない。
そして最も興味深いのが、吉田作品につきものの、「片割れの喪失」である。吉田秋生の作品においては、相互補完関係にある二人の片方が死亡することが多いが、カリフォルニア物語のイーヴ(白痴的)とテリー、そして吉祥天女での涼の死亡は、少女的な者、無垢な者の死亡であり、萩尾望都と完全に被っている。残されるのはヨゴレの非少女ヒースと小夜子なのである。ところが、アッシュに関しては違う。ここで初めて、吉田は非少女を殺すのである。
勝手な憶測を許していただければ、吉田秋生は年を重ねるにつれ、本当に生きていけないのは非少女のほうであると気づいたのではないか、と考える。萩尾・吉田両作品に於いて、少女は自らを慰め、理解してくれるという理想化された存在である(ただし、その少女の所為で自らが非少女に貶められていることも忘れられてはいない。たとえばトーマや小夜子の母を見よ)。少女の死は往々にして非少女に、自らの存在を問い直させるような役割を果たしている(生け贄!)。だが、少女はとある時期を無垢にすごすことにより、何の疑いもなく女になることができる。そして白痴は何にも汚されることがない。となると、生きていけないのは誰か?結婚も出来ず、社会の不条理に目を瞑ることも出来ず、抵抗し、抵抗し、抵抗し、その先に待っているのはなんなのであろう?(たとえばあなたは、叶小夜子が結婚する姿を想像できるだろうか?)それに気づいた時、非少女は死ぬしかないのである。*3

*1:当然、現実はこのような少女だ非少女だでパッキリ分けられるものではない。が、キャラがキャラである漫画の中においては、この見方は発明といっていいほど面白いモノだと思う。

*2:そこから脱出しようという萩尾のあがきの結果が、エルグであったりエリックであったりするのだが。

*3:二巻で渡辺えり子が『私たちの死体』というエッセイを書いており、私はこれをとても興味深く読んだ。ここの11/23に大部分が載っている。

4、なるしまゆり

実は、私はどうも吉田秋生の周辺や後継の人々を見つけ出せないでいる。それはただ単に私の読書不足に起因するのもあるのだが、サブカルのなかのサブカルのなかで(少女漫画の支流のなかで)、とりわけ岡崎京子的なものがググイと持ち上がってきたからかなぁとも思っている。そんななかで、やおい文化出身のなるしまゆりが、フラットフィールドだの痛みの仮託だのとは全く反対のことを、24年組吉田秋生を受け継ぎながらさらに進化した形で継承していることはとても嬉しく、同時に驚きだった。

  • 少年の世界
  • 許し、赦し
  • 人工子宮での非自然出産
  • 母性の暴力
  • アダルトチルドレン
  • 傷ついても元に戻る身体、不死の生物、人外の生物
  • 異端児

と、少年魔法士だけ見ても萩尾作品とこれだけの共通点がある。しかし、このキーワードがお互いをつないではいるものの、それに対するアプローチは全く異なる。それがなるしまの凄いところだ。

5、性器を持った少年は父性と対立する?

さて、ここで一旦萩尾望都吉田秋生の話に戻りたい。そもそも彼女達の根底には、女性性、母性の忌避があるという話を私は1、萩尾望都で触れたが、実は吉田秋生作品において、母親と対立するという構図は殆ど取られない。大体が父性との対立の物語である。萩尾望都のほうはというと少し違って、例えば『トーマの心臓』では父性に理想を抱き、結局その父権体制に回収されるわけだけれど、もしくはこの娘うります!での父親からの悪意のない拘束や、スター・レッドでの義父の描かれ方を見れば解るとおり、初期萩尾望都にとって、父性は憎悪の対象ではなかった(母性や女性性の忌避をうかがわせる作品が『かわいそうなママ』『雪の子』)。ところが、『訪問者(’80)』で、父に焦がれ続けるも結局捨てられるオスカーの話を描いた後発表された『メッシュ(’80)』では、父性との対立がメインテーマになる。さらに注目すべきなのは、母親にうりふたつのダブル(分身)として設定されていたオスカー・ライザーに対し、メッシュは男性であり、ヘテロ異性愛者)であり、それなのに女性の名前、フランソワーズ・アン・マリー・アロワージュ・ホルヘス(暗記してる!)という名前をつけて生まれたという、ジェンダーのなかで悩むことがはっきりと提示されている画期的なキャラクターだったのだ。またこの作品のなかでは初めて「同性愛者」という言葉が出てきている(いままでドウセイアイだとかオンナだとかオトコだなんてことは全く関係のないことだった)。更に、彼はなんと作中で二度、女性と関係を持っている。これも萩尾少年主人公初のことだと思われる。とにかく彼は萩尾作品の革命児、勃起する性器を持った少年なのである(ただし彼は作中二度カマを掘られており、受動性器ももっている。彼の性別イメージは超多様で、その原因が最終回で明かされるという構造をとっている)。そして彼は父性と対立する。
性器/受動性器を持った少年が父性と対立するという構図は、吉田秋生『カリフォルニア物語』『河よりも長くゆるやかに』『BANANA FISH』に見られ、萩尾望都『メッシュ』残酷な神が支配する』にも共通している。更に注目すべきなのは、ここでの母性の表され方で、失われた憧憬の対象(カリフォルニア、バナナ、河よりも、メッシュ)か強い一体化(メッシュ、残神)であり、どちらにしても否定されるものではないということである。*1
蛇足ではあるが、花の名前をもって生まれたヒースはメッシュと同じ構造である。また『メッシュ』と『バナナフィッシュ』の物語構造も共通している。たとえばマフィアのボスであるサムソンとゴルツィネ。主人公に付随する天使と悪魔の両義的なイメージ。

*1:超例外としてあるのが、マージナルです。これについてはまたいつか。

6、性器を持った少年が母性と対立するとき

性器と持つ少年によって美化される母性。それを打ち砕いたのがなるしまゆりだった。『少年魔法士』の主要登場人物、レヴィ・ディブランは虚弱体質で神聖騎士団の最高祭司、しかも金髪碧眼の美男子という、なんとなく中性的なキャラクターとして描かれている。しかしその実、不死の高次生命体ナギとできており、性器をもつ少年である。重要なのは、1、彼は母親に犯される、2、性器をもちながら母性と対立する、という二つの新しい構図である。母親に犯されること自体は、『ラヴァーズ・キス』にも見られる構図だが、こちらの場合は重みが違う。父親のダブル(分身)として犯されそうになる朋章とは違い、レヴィは自ら考え、その意見を母親に言いにいったところ犯される(非少女であるため犯される!)。その考えとは、自らが力を込めて押すことで、他人の身体を傷ついても元に戻すことが出来る「奇跡」への疑問だ。幼い頃は無意識にやっていたが、次第に「傷つく」ということがどんなことか、その痛みを知り、「奇跡」を受けたものが悪魔討伐に行くことへの疑問を母にぶつける。そして母アンヌはこう言う。

「自分で?自分で何を考えたというの?余計なことですよ」
「ああ……いやだ この子はなんでこんなに大きくなってしまったのかしら」
「もう……私に……お還りなさいな……」(6巻)

そうして母アンヌはレヴィを犯すのである。その後、レヴィはアンヌの後をつけ、壁一面に並ぶ冷凍胎児を見る。そして最後に、年をとるにつれ衰える自分の能力によって、肉塊になっても死ねない、知性のない不死身の肉体を見ることによって、ついに自暴自棄になり魔物の巣穴に飛び込むのだ。
しかしそこでレヴィは高次生命体ナギと出会い、二人は恋人となる(このあたりは詳しく描かれていないが)。ナギと契約を結び、雌伏11年の後、母親の元を離れて騎士団を脱出するのである。ただしここでは母性との格闘の決着にはっきりとした結論は与えられていない。とにかく今まで見てきた中で最高の終わりかたではあった。

レヴィ・ディブランの母性との対立以外の特徴として、

  1. 人外の生物との性交
  2. 非少女であるがゆえに貶められる

ということが挙げられる。1に関しては、私は他に例をあまり知らない*1。ここで重要なのは、おそらくナギは出産能力を持っていないであろうということである。つまり彼女と結ばれることは母的な体系への回帰にはならない(実際レヴィは、女性らしいラフィトゥが苦手だと告白している)。2に関しては、彼にとって、彼が「押す」ということがどういうことか知りながら「奇跡」を受けに来る騎士たち、また知ろうとせずに自分を崇める者たちは、まさに<主体><認識行為>を封印された「少女」であり、彼自身もまたそのように育てられたために、知ってしまった自分に対して思い悩む部分がある。しかし彼はナギの協力を得て、「非少女」となることを選択するのである。

*1:『OZ』の1024というロボットとネイトくらいだろうか?萩尾望都銀の三角』でもラグトーリンはタカオとかいう脇役と寝ていたが

7、テーマの逆転――「少年魔法士」

少年魔法士は、今までのテーマを「逆転」させた漫画である。
同じ「異端児」を描いた漫画でも、萩尾望都の作品において、永遠を担当するのは「少年」の役割であった。全てを失ってもなお生き続けるバンパネラエドガーに、死ねない少年エルグ、そして殺され続ける少年、ル・パントー(ラグトーリンという例外もいるが)。それでは少女達はどうかというと、「死んで」永遠になるのである。フロイライン・トーマしかり、メリーベルしかり、ユーシーしかり、トリルしかり、その代表例はレッド・星である。直線的な時間を生きるエルグに対して、一度死に、もう一度母胎に還る星。二つの永遠。
ところが、少年魔法士では「永遠」を背負うのは女である。人外の高次生命体ナギ/一定の繰り返す時間の中で少女であり続けるローゼリット/傷ついても元に戻る「奇跡」を受けたアンヌという女性陣の異端児。エルグ的一直線の時間を背負うナギに対し、同じ場所で止まる時間を持つローゼリット、そして環状線のように見えて螺旋階段のような肉体をもつアンヌ。そして彼女たちは、高次生命体で人外の生物、強い/グィノー家一の魔女/神聖騎士団の最高祭司の母で実質上のトップ、という『力』を持っている人物でもある(異端児の特化された能力を有効活用している)。
それに対して、「今」を背負わされるのは男である。レヴィ、カルノ、勇吹。そして人王アークすらも死ぬのである。更に彼らは、確かに素晴らしい能力を持っているが、その能力に自分自身が貶められ、また悲しい思いをしている(異端児の二面性を強くもっている)。それをもっとも強く体現するのが、人王アークその人である。彼の継承した72の英霊は、身に宿すものに世界最高の魔法を約束するが、その力は強大すぎて、世界を破壊してしまう。よって人王は、ただただその力と英霊を身体の内に封じ込める「器」でしかない。当然、これは「最高祭司という器」、そして「肉」であることを拒否し、自ら騎士団を抜け出したレヴィ・ディブランの対極にいる存在である。そして彼らはナギを巡って争うことになる。

勿論、この物語が永遠の少女、ローゼリットの死から始まることは、特筆すべきものである。死を望む姿と、勝気な女――藍とカルノに写った別々の姿。しかし「永遠」は崩れ去り、「少女」は死ぬ。少年は生きていかざるを得ない。
だが何のために?

8、母性からの脱出と母になる少年

大塚英二が「<産む性>としての少年」という論文を書いていたと知った時、かなり凹んだものだ。また先を越された、と思ったのである。しかしながら、私は現在2003年に生きていて、少女漫画は更なる進化を遂げていた。よって同様の題材で文章を書いても、また違ったものが出来る。だからこの文を書いてきた。

大塚の上記の論文をはじめ、多くの人物に指摘されるのが、萩尾望都スター・レッド('78)』『マージナル('86)』においての世界再生構造であった。『スター・レッド』において、主人公レッド・星は物語の3/4くらいのところであっさり死亡してしまう。そして終わり、星はヨダカという火星人の少年の身体を変容させ、子宮を作り、そこからもう一度生まれるのである。また、何度か話に出ていたエルグのほうは、魔のアミの星に取り残され、そこで精神を解放することによって魔の星を再生させる。『マージナル』においては、夢の子供キラ*1が地球の深部で地球と同じ夢を見て、不妊のD因子を壊滅させる。とまぁ訳がわからないと思いますが、要は3回の世界の再生が少年・少年・両性具有によって行われており、母性神話に回収されるのを避けている、という指摘である。
マージナルを描いたあと、萩尾望都は2年ほど沈黙し、その後『ローマへの道('90)』『イグアナの娘('91)』という母性を肯定するような作品を発表し始める。そして『残酷な神が支配する('92〜01)』を連載し始めるのである。
残酷な神が支配する』を私なりに解釈するとすれば、『トーマの心臓』と『メッシュ』のやり直し、である。その真偽はおいておくとして、その構造については、id:lepantoh:20031230においても指摘した。さて、私が問題にしたいのは、この物語のラストなのであるが、ここでもやはりイアンによる『生む』行為が行われていることに注目したい(産むじゃないよー)。このあたりの流れを整理すると、

  1. ベッドの上でジェルミがイアンに「ぼくを生んで」という。水のイメージ。水面に出ようか?というイアンに、ジェルミは「まだいい」と答える(16巻)
  2. 物語のラスト(17巻)、母サンドラの墓の前で、漸く自らの罪を告白したジェルミの元に、サンドラの幻影が土の下から出てきて、ジェルミに接吻する。ジェルミは墓を掘り返そうとしたあと、駆けつけたイアンの腕の中で気を失う。
  3. 目覚めたジェルミは「死んだ…」という。彼の肩にはサンドラの手がかかっている。真っ暗な世界で「ぼくは死んだんじゃ…」というジェルミに、「おまえは…生きてるよ」とイアンの手が差し伸べられ、光が差す。彼は「愛することを試してみてもいいだろうか」と愛を回復し、イアンは彼を生む。

つまるところ、イアンは「神」ではなく(昨日の日記参照)「母」になったわけである。ただしイアンは死んだり置き去りにされてはいない(キラとエルグ)。そして女性になるわけでもない(ヨダカ)。ヨダカに関しては、少年が星を孕む、という構造があるにはあるが、産んだあと髪の色も変わって、ヒラヒラレースの服なんか着こむ「少女」のようなお母さんになってしまう。それが当時の萩尾望都の限界で、そのような母こそが非少女を貶めるものだと気づいていない。*2よって、見てみぬフリをしていた、目の前で息子が父に犯されているのを見ても、「そう考えるのは罪だわ」なんていっているサンドラは、ヨダカの持つもう一方の面を示したことになる。そしてその「主体と認識行為を封印した少女」である母サンドラの「赦し=キス」は、ジェルミにとって死だったのである(メッシュと同様の構造)!ただしそこにはイアンがいた。萩尾望都の救済者の神の系譜の最後の継承者であり、またそこから脱出した最初の救済者。同時に母としての少年であり、かといえども「母」ではない。イアンこそ萩尾望都作品の革命児なのである。
また、id:lepantoh:20031226、吉田秋生サイコウ2において検証したとおり、アッシュもまたラストには英二(性器を持たない少年:内面は少女)の愛に包まれる(しかもそれは彼にとって支配ではない)。櫻の園やバナナフィッシュで見られる同性による回復は、少女/少年に向けられる性的な視線からの脱出の、最後の手段であるように思われる。
と、ここまで「少年」のイメージが飛躍したあと、次はどこへ向かうのだろうか?
私はなるしまにその答えを見る。今までレヴィについての話ばかりしていたのだが、今度は少年魔法士の主人公、カルノと勇吹の話である。

*1:キラは四つ子で、一人は赤ん坊のまま成長せず、他の三人は深層でつながっているという設定(一人が覚えると残りの二人も覚える)。これは物語中のイワンの子宮第二の脳論とあわせて考えると、キラ自体が子宮のメタファーとして浮かび上がってくると指摘したのは藤本さん。

*2:萩尾望都は漫画ばっか描いていないで結婚しろと言われ続けたそうだ。それこそ戦後の「良妻賢母生産体制」であり、そこから抜け出そうとする非少女・萩尾にとって、少女的な母というのは脅威である筈なのだ

終・少年は子宮になりうるか

カルノ・グィノーは魂の免疫不全の悪魔喰いという設定である。人は簡単に他者と交じり合ったりしない。ただし、カルノは魂の免疫不全であるために、他者の魂と簡単に融合する。そして魔物にとって受肉するということは魅力的なことであるため、カルノは魔物の「器」になる。
 
嫌な予感がした人、ごめんなさい。つまり、キラからさらに進化した形で、カルノは「子宮」だと思うんです。
 
証拠ならあります。まずカルノに悪魔が憑いた瞬間を描いた2巻。

……来よ 魔性の子よ 手始めに我をやろう
その身にやがて我が主が受肉せし時のために
まずは 我が混じりて苗床を耕そう

苗床。そして最新11巻ではもっと重要な言葉をいくつか散見できる。カルノと違って、下級な魔(自分の母親)が頬にくっ付いているユーハ。それは「霊的にほっぺたで妊娠してるようなもん」と表現される。カミサマと交感して子供を作る話がされる。さらに高等な魔を受肉させることが出来る器をもったカルノのことを、ユーハは「高級娼婦みたいなもん」という。
やはり、カルノは子宮のメタファーである。
と同時に、子宮のイメージを大きく離れている。かれは少年だからだ。
勿論、カルノ自身の魂が強く輝いていることによって、カルノは喰ってきたモノに打ち勝つことが出来る。つまることろ、排卵はしても受胎はしないようなものである。そこで遺伝子情報のハンブンに変わる精子的なものが必要となる。嫌な予感がした人は逃げましょう。それは「神霊眼」をもつ勇吹である。なんとなく、母的なイメージがある勇吹だが、そこらへんは『逆転』ということでさらりと流しておきたい(原獣文書でも逆転は見られる)。
少年魔法士のキーワードは『器』であるといっても過言ではない。72の英霊を入れておくための器、人王アークと、次代の勇吹。そして高等な魔を胎内に宿すことが出来る数千年に一度の器、カルノ。もう一人、お飾り猊下と呼ばれ、何も考えない肉であることを要求されたレヴィ。ここではアーク―勇吹、アーク―レヴィというシンメトリー構成、そしてカルノ―神霊眼という補完関係がある。そして『器になること』に対する態度は、なんだかんだで従順(アーク)、疑問を感じているが自我がいつも勝っている(カルノ)、そして反発(レヴィ)、謎…(勇吹)と、四者四様である。
ここまで書いたのなら、魔法士既読の方はお気づきだろうが、現在少年魔法士では、人王アークがカルノの意識をつぶし、72の英霊と世界中の魔法士を喰わせ、「神」を創り出そうとしている。ここもやはり萩尾望都との共通を思わせずにはいられない。新しいタイプの子宮としての少年・カルノと勇吹はこれからどうなってしまうのか、私は楽しみに見守っていようと思う。